18.ベルの世界1

 『ドーワ』で過ごした日々の記憶が、わたしに迫っては後ろに流れていった。

 焼却炉の炎、陽気な町並み、コーヒーを入れるグリム先生、鋭い目つきのスピア先生、無遠慮なジャック、シラユキを起こすアリス、朝日に包まれながら読書をするアン。

 

 過ぎ去りし日々が清らかに流れ、流れ、流れ、流れ、流れ、初めて『ドーワ』の地を踏んだ時の記憶すら追い越した先に、それはあった。




 川に流されるような感覚が終わり、1つの記憶にわたしは辿り着いた。

 剥き出しの土の上に、家屋と呼べるのかすら怪しい貧民街の家々が疎らに並んでいる。そのどれもがみすぼらしく、どこかが壊れ、すべてが汚れている。

 代わり映えしない小汚い家々。ただ不思議と、その中で1つの小さな家に視線がいった。


 ここは、わたしの……。


 わたしは扉を開け、ギィ、という音と共に家の中に入る。小さな木箱を連想させるような薄暗い部屋が、わたしの視界に入ってきた。

 部屋の中には2人の住人。木の棒と石でママゴトをする女の子と、ぼーっと中空を眺めている大人の女性がいる。2人とも飴色の長い髪をしていて、親子なのだとすぐに分かった。


 女の子は遊んで欲しそうにチラチラと母親に視線を送る。だけど、母親は全く反応を示さない。まるで、初めから娘なんて存在してないかのように振る舞っている。

 その母親には、愛情というものが欠けているように思えた。いや、そもそも彼女自身、愛情とは無縁に育ったのだろう。その注ぎ方すら、初めから知っているはずはなかったのだ。


 しばらくして、母親の手でテーブルに料理が並べられた。カビの生えたパンと、冷たいグリンピースのスープ。


 女の子はイスに座り、それらを食べ始めた。元々、女の子はそのスープが好きではないのだろう。スープを飲む前に、一瞬顔をしかめる。だけど、母親に嫌われたくないのか、それから後は満面の笑みでそれを飲んでいた。母親は少しの興味も示さない。それでも、女の子は気味が悪いくらいの笑顔でグリンピースのスープを飲み続けた。


 愛の反対は無関心。そんなことすら、女の子は分かっていないようだった。

 

 食事を終えると、母親は女の子の手を握り、外に連れ出していった。わたしも2人の後を追う。すると、すぐに女の子の声が耳に届いてきた。


「ねぇ、お母さん。どこに行くの? 何をするの?」

 母親は何も答えなかった。ただ静かに、女の子の手を引くだけだった。


 2時間くらい歩いただろうか。突然、母親は女の子の手を離した。

「鬼ごっこをしましょう。あなたが鬼で、わたしが逃げる。60秒数えたら追ってきてもいいわ。……分かった?」


 そう言って、母親は女の子の元を離れていった。女の子は母親に話しかけて貰えたことが余程嬉しいのか、わかった! と大きな声を上げる。

 わたしは思わず、女の子に話しかける。


「ダメ……ねぇ、ダメだってば。早く後を追わないと……」


 わたしの声は女の子に届かない。小さな手の平で目を隠して、いーち、にーい、と数を数え始めてしまう。


 わたしは女の子に声を掛けることを諦めて、母親の方を見る。彼女は1度も振り返ることなく、来た道を早足で引き返していた。僅かに見えた母親の顔には、清々しいまでの醜悪な笑みが張り付いていた。


 女の子がろくじゅうを数え終わる頃には、既に母親の姿は見えなくなっていた。




 鬼ごっこが始まって、半日が経った。

 どれくらい歩いただろう。何も考えず母親についてきた女の子は、家への帰り道が分からなくなっていた。いや、そもそも子供が1人で帰るには距離が長すぎた。パンくずでも落とせば目印になったのだろうけど、女の子にそんな知恵はない。

 その日は、暗い路地裏で身体を丸くしながら一夜を明かした。




 鬼ごっこが始まって、1日が経った。

 寝た場所が悪かったのだろうか。体中砂まみれのまま、貧民街を歩いた。

 まだ鬼ごっこは続いていて、母親は自分に見つけられるのを待っているのではないか。そんな淡い期待を懐きながら、女の子は泣くのを我慢して歩いた。

 結局その日も母親は見つからなくて、暗い路地裏で身体を丸くしながら一夜を明かした。




 鬼ごっこが始まって、3日が経った。

 飲まず食わずで歩くには、もう限界だった。疲労と空腹で動けなくなった女の子は、壁に寄りかかるようにして道に倒れた。

 倒れる前も、倒れる瞬間も、倒れた後も、手を差し伸べてくれる人はいなかった。悪い大人に拾われなかったことだけが、唯一の救いだったと思う。だって既に、女の子には立ち上がる力も残っていなかったのだから。




 母親を探して5日が経った。

 その日は朝から雨で、厚い雲が空をおおっていた。

 冷たい雨は、女の子の心と身体から生気を奪っていく。もう、1ミリも動けはしないだろう。微かに開かれた両の目で、ぼんやりと空を見上げながら女の子は思った。


 お母さんなんて、きらい。だいっきらい。

 あんな苦しいだけの生活は、2度と思い出したくない。名前も、顔も、あの人と過ごした記憶も、ぜんぶぜんぶ忘れてしまいたい。


 それは、死にゆく子供の悪あがき。これから息絶える女の子が、母親に対して、世界に対して行った初めての反抗だった。


 誰に届くわけでもない。口にする体力すら残されてはいない。

 それでも、そう思わずにはいられなくて、それでも、それを聞いてくれる存在が世界には1人だけいたんだ。

 

『うん、分かった。それじゃあ、今までのことを何もかも忘れられるような慈愛に溢れた場所に、わたしが連れて行ってあげる。……もう大丈夫だよ。だから、安心しておやすみなさい、ベル』




   

 



 こうして、”星の声”がわたしに届いた。その声を聞いたわたしはなんだか眠くなってしまい、女の子と重なるようにして意識を失った。

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