17.混沌の思惑

「ねぇ、君達。大人になるって、どういうことだと思う?」


 とある日の昼下がりのこと。遊び場エリアにある捻れ木の下で、何の前触れもなくそう問われた。


「私は、苦しみを受け入れるってことだと思う。自分の歩く道を自分で選んで、そのリスクや責任を自分1人で背負う。そういうことだと思うんだ」


 わたしは言葉の意味も理解せず、大人っぽくて格好いいな、とただ憧れの眼差しを彼女に向ける。隣に座るアンとジャック、    も同じように彼女を見ていて、その視線に気づいた彼女は、綺麗な黒髪の末端を弄りながら言った。


「ごめん。いきなりこんなこと言われても、反応に困るよね。……でも、これが私の正直な気持ち。君達にはちゃんと言っておきたかったんだ」


 そう言われ、わたしはキョトンとした顔を、アンと    は嬉しそうな顔を、ジャックは哀しそうな顔を彼女に向ける。彼女はふふっ、と笑って、


「いつか、私の言葉を理解する日が来ると思う。もしその時が来て、自分の苦しみを誇って受け入れられていたなら、それはとっても良いことだって思うんだ。……だから、逃げずに頑張ろうね。私も頑張るからさ」


 彼女は――カグヤ姉は、黒色の長髪をなびかせながら空を眺めている。

 アンはカグヤ姉を見て、まだわたしと同じくらいの長さの赤髪をそっと触る。ジャックは同じく空を見て、気ままに流れる雲を目で追う。    はカグヤ姉、アン、ジャック、わたしの順で顔を見る。わたしはそんな4人の姿を見渡して、この時間がもっと続いたら良いのにな、と木に身を預けながら思った。




   ♥




 目覚めるようにして、はっと瞼を押し上げる。慎重に息を吐いて、身震いをしたあと、まだ頭に残る夢の景色を噛み締める。

 あれはかつて、わたしが見た景色。忘れたいと願うほど大切だった、わたしの記憶。

「……なんで、今更……」

 朝の放送も、カーテンの隙間から漏れる朝の光も、アンの透き通った声もない。ただ夢から覚めただけで意識を覚醒させている自分がいることに、今はとても嫌気がさしていた。




 あの巨人のような男に殺すと言われてから、3日目の朝が来た。

 あれから朝を迎える度に知らない大人が部屋を訪れて、『ドーワ』がいかに歪んでいるか、自分達がいかに正しいことをしているか、丁寧に丁寧に、グリム先生が異国の物語を語る時のように話してくれた。

 

 子供を奪われた親の嘆き、親友と会えなくなった青年の怒り、わたし達の未来を愁う自称良識者達。


 初めは浮ついた戯れ言だと聞き流していたけれど、自分でも気付かない内に、彼らの言葉に聞き入ってしまっていた。彼らの嘆きが、怒りが、愁いが、自分のことのように感じられた。

 もしかしたら、『ドーワ』は本当に間違っているんじゃないか。そんな事を考えるようになった。

  



   ♥




 ふとした時に、ジャックやアンの顔が頭に浮かんだ。

 心を許し合える親友で、同じ施設で育った家族。3日前まではそう思っていた。


 だけど、アンデル先生は言った。ジャックは元『虫憑き』で、アンに至ってはわたし達を殺そうとしていたのだと。もちろん、アンデル先生が嘘を言っている可能性もある。信用はしていない。だけど、あの言葉が嘘だとも思えなかった。


 ずっと隣にいた親友に裏切られた。

 同じ屋根の下で育った家族に騙されていた。

 もう誰も、信用出来なかった。




   ♥




 この部屋に閉じ込められてから、忘れていた記憶の断片を夢で見るようになった。


 お父さんがいたら、きっとこんな感じなんだろうな。そんなことを思いながら、アンデル先生との他愛ないお喋りをする夢。


 ジャックとアンとわたし。そして、わたし達の憧れの的だったカグヤ姉。わたし達は遊び場エリアで一緒に遊んでいて、それを名前の分からない誰かじっと見詰めている夢。


 どの夢も、誰も彼もが幸せそうにしていた。今となっては懐かしすぎる思い出で、もう2度と戻ってこない日常ばかりだった。


 今の自分を形作っているのは、過去の記憶である。自分の過去を知ることは、自分のルーツを知ることに他ならない。そう、『ドーワ』の指導された。

 だから、忘れていた大切な日々を思い出す度に、いかに自分がルーツを忘れていたかを実感させられた。


 わたしはどんな人間だったのだろうか。

 わたしはあと、何を忘れているのだろうか。


 考えれば考えるほど自分が分からなくなり、遂には自分すら信用出来なくなった。




   ♥


 


「よし、今日はこの辺でいいだろう」


 今日も大人達が語りを終え、満足げにわたしを見下ろしている。わたしは彼らに視線を向け、はい、そうですね、と短く答える。

 彼らに反抗しようという気は、もうわたしの中に殆ど残されていない。価値観を変えるために話をしている、とアンデル先生は言っていたけれど、正にその通りだった。


 わたしの中で、何かが変わりかけていた。


 ギィ、と扉が開く。語りを終えた大人達が部屋を後にし、入れ替わるようにして夕食が運ばれてくる。

「それを食べ終わったら、アンデルさんが来るから。その時に答えを聞かせてね。ま、答えなんて聞くまでもないけど」

 そう陽気に笑って、夕食を届けてくれたおばさんも立ち去っていった。


 誰もいなくなっちゃたな……。

 わたしはふらりとベットから立ち上がり、夕食の置かれたボロ机に向かう。


 何も考えられなかった。嬉しいとか、悲しいとか、そういう言葉じゃ言い表せない感情がわたしの中で渦巻いていた。

 それに押し潰されそうになりながら、夕食のメニューを確認する。お皿は2つ。その上にはプレーンのパンと、冷たい緑色のスープ。トレーの縁には、どこからか迷い込んだ1匹の蝶が止まっていた。


「……最悪」


 トレーの縁に止まっている蝶を払い除けて、1つのお皿を持つ。そして、それを洗面台まで持っていって中身を捨てようとしたとき――


『捨てちゃうんだね、グリンピースのスープ』


 透き通った声が聞こえて、わたしは硬直した。左右、後ろを確認しても誰もいない。残るはただ1カ所。洗面台に設置された、曇った鏡の中だけ。

 わたしはゆっくりと、鏡に映った自分を見る。そこにはいるのはわたしの像じゃなくて、死んだはずのアン。彼女は悲しそうな表情でわたしを見ていた。


「夢、じゃないよね。なら幻覚か……」

 来るところまで来ちゃったな、と心の中で呟く。鏡の中のアンは自分を指差しながら、


『鏡は真実を映すもの。そうグリム先生は言っていたよね? だから幻覚だったとしても、鏡に映るわたしは真実。わたしはアンだよ、ベル』

「幻覚とお喋りなんて、笑える。ほんと……」

『バカみたい? でも、1人でそうしてるよりは何倍もマシだと思う。……どうするの、答え?』


 鏡の中のアンが、わたしに問いかけてくる。

 不思議な気分だった。幻覚だと分かっているのに、アンに今のわたしを見られることがとても恥ずかしかった。


「……アンには関係ないでしょ」

『関係あるよ。だって、わたしは貴方の親友なんだから』

「……もう黙って」

『ううん、黙らないよ。ベルはまた苦しみから逃げようとしている。辛いことを全部なかったことにして、楽な方へ行こうとしている。ねぇ、ベル。貴方は何がしたいの?』

「……なの……そんなの分からないよっ!」


 咄嗟に大きな声が出て、それから静かに口を閉じた。

 痛い所を突かれたと、自覚があったから。


「何が正しいのか、わたしにはもう分からない。どんな道を歩いたって、きっと辛い。誇れる道なんて知らない。だったらいっそのこと……」


 『ドーワ』はわたしの全てだった。アンがいて、ジャックがいて、グリム先生がいて、スピア先生がいて。皆で楽しく毎日を過ごせたら、それ以外は何もいらなかった。なのに……。

 もう、悩みたくない。苦しみたくない。いっそのこと全てを捨てて、流されるがままに自分の歩む道を決めてしまいたかった。

 

『……ベルの覚悟はその程度だったの? てこだろうと、スピア先生だろうと、わたしの死だろうと動じないんじゃなかったの?』

 

 鏡に映るアンは、なおもわたしを悲しそうに見詰めている。こんな所で諦めないで。そう、わたしに語りかけてくる。


「そうだね……。わたしはただ、アンが自殺した理由を知りたかっただけなのに……それももう、どうでも良いと思ってる。こんなこと、初めからするんじゃなかった……」

『…………』

「……だって、得たモノなんて何もないでしょ? いろんな人に騙されて、傷付くだけ傷付いて、苦しい想いしかしなかった。大人になるなんて、わたしには無理な話だったんだよ……」


 わたしは目を伏せて、手に持っているお皿の中身を見る。

 冷たいグリンピースのスープ。今の状況は、これと同じなんだ。

 飲み込んだ後で吐き出すくらいなら、初めから飲まなければいい。そうすれば、あの味も、臭いも、不快に感じることはない。


 ……そうだよ。苦しみなんて受け入れる必要はないんだ。初めから無かったことにして、辛いことからは目を逸らしていこう。だって、それが1番楽なんだから。自分が傷付かずにいられるんだから。


 鏡の中のアンも、わたしと同じようにお皿の上を眺めている。

『それは、ダメ。ベルはもう18才で、下の子達の手本となるべき存在で、もうすぐ星になる者。苦くて冷たいグリンピースのスープも、全部飲み干さなくちゃいけないんだよ。……あの時も、そう言ったでしょ?』


 わたしは言葉を失った。

 鏡の中のアンが放った言葉は、朝食の席でグリンピースのスープを貰ってくれと、紛れもなくわたしがアンに頼んだ後の言葉だった。


 アンにとっては最後の朝食の席。それは彼女にも自覚があったはずだ。

 なら、いつも貰ってくれていた筈のお皿を、なぜあの日に限って突き返したのだろう。


 そんなの、決まってる。

 明日からはわたしの苦しみを肩代わりすることが出来ないと、わたしの苦しみはわたし自身が背負うしかないと知っていたからだ。


 アンはわたしにゆっくりと手の平を向け、ぴたりと鏡に触れる。


『……今のわたしなら、貴方の力になれると思う。どっちに進むかは分からないけれど、少なくとも、自分の意思で前に行ける。この手にさえ触れてくれれば……』


 透き通った声で、アンは言う。わたしはその手に触れようと手を伸ばし、けれど、ぎりぎりの所で躊躇ってしまう。

 あと一歩が踏み出せない。これ以上苦しい想いをするのかと思うと、怖くなって手が震えた。あと少しなのに、手を伸ばせなかった。


「……ムリだよ。もう誰も信じられない。アンも、ジャックも、『ドーワ』も、自分すら信じられない。これ以上、わたしは前に行けないよ……」


 声が、震えていた。震えずにはいられなかった。

 自分の言葉に嘘がないだけに、それが幻覚だと分かっていても、アンの目の前でアンを罵倒してしまう自分が、どうしようもなく嫌いになりそうだった。


 アンはわたしの目を見て、正面からわたしの言葉を受け止めていた。悲しそうな顔をして、1度目を閉じて、それから覚悟めいた真剣な顔をわたしに向けた。


『虫のいい話だってことは、分かってるんだ。だけど、うん。それでも言うね。――わたしを信じて』

 

 透き通った声で、そう言った。

 我ながら単純だと思った。アンの言葉を聞いた瞬間、鏡に映るアンを信じても良いと思ってしまった。


 怖くて、手が震えて、もう一歩も踏み出せない事実は変わらない。だけど、たった半歩を踏出すだけなら、鏡に手を触れるだけなら、今のわたしでも出来る気がした。


 鏡の中のアンは、優しくわたしに微笑む。


『行こう、ベル。忘れてしまった、貴方の世界へ』


 わたしは半歩前に出て、鏡越しにアンと手を合わせる。

 すると、ふわっと身体が浮いたような感覚に襲われて、次の瞬間には頭の中に記憶が流れ込んできた。それは事情聴取の時に感じた記憶の濁流ではなく、清らかな川の中に飛び込むような感覚で、不思議と不快感はなかった。


 わたしは意識を、その流れに委ねた。

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