11.星の慈愛はここにありて
『ドーワ』には、保管室と名の付いた部屋がある。施設の資金の使われ方から、朝昼夜の食事の献立に至るまで、様々なものが1年単位で記録され、壁を覆うように並んだ大棚にビッシリと保管されている。
ジャックとの話し合いが終わった後、わたしは真っ先にそこに向かった。
わたしが保管室を訪れたのは、自分の物忘れの酷さを確かめるために他ならない。
何か辛いことがあると、それを忘れようとする癖。
人の顔を黒く塗りつぶして、名前が思い出せなくなって、最終的には記憶ごと消えてなくなる。この癖は、多分そういう類いのものなんだと思う。
カグヤ姉って人も、わたしが忘れてしまった可能性が高い。わたしが知っていることを前提で話していた、アンやジャックの口ぶりが何よりの証拠だ。そして、アンの時と同じ物忘れなら、きっかけさえあれば思い出すことも出来るはずなんだ。
名前や関係性、一緒に何をしていたか。そういう情報を1から整理していけば、この虫食い状態の記憶は埋まるんじゃないかって思った。
もっとも、こんな埃被った部屋を訪れる機会なんて滅多にないわけで、どこにどの資料があるのかすら分からない。あれは違う、これも違うと資料を出し引きしながら、目当ての物を引き当てるまで1時間ほど悪戦苦闘するはめになった。
「……これ、かな?」
木製の脚立に腰掛け、埃を払いながら棚から資料を引き抜く。
3年前に『ドーワ』に所属していた子供、または職員に関する記録。うん、大当たりだ。
3年前は、わたし達が”星繭の儀”を受けた年。グリム先生が『ドーワ』に来た年。そして、カグヤ姉って人が姿を消した年だ。
「カグヤ、カグヤ、カグヤ……あった」
文字を指でなぞって確認する。
『カグヤ 女性 18才』
『8才で星の声に選ばれる 就学経験あり 施設での成績は可』
『交友関係は狭い 同年代の子はおらず、年下のアン、ジャック、 、ベルと仲が良かった』
『月に1度、 とよく町に行っていた。しかし、”断界日”の直前に1人で町に行ったきり行方不明になる』
やっぱり、わたしがカグヤ姉と交友関係があったのは確からしい。これを見ても記憶は戻らなかったけれど、事実を確かめられたのは大きな前進だ。
ただ、問題があるとすれば、新たに見つけた空白。資料の所々に、消しゴムで消したような文字の空白があることだ。
カグヤ姉以外にも、わたしは誰かを忘れている?
わたしは空白を指でなぞる。だけど、その部分は他の文字とは違って凹凸が感じられない。つるつるしているのだ。
「本当に、文字が消えてる?」
この書き方を見るに、この空白の文字はわたし達と同年代の子の名前のようだ。
記載ミスであるはずはない。この部屋にある資料は、『ドーワ』が正式に出したものだから。しかし、アンとジャック以外、わたしと同年代の子は『ドーワ』にはいない。なら、存在を消してしまいたいと思うほど、別れたときのショックが大きかったということだろうか。
何か手掛かりを得ようと、わたし達のことが記載されてるページを見る。
『アン 女性 15才』
『10才で星の声に選ばれる 就学経験あり 施設での成績は良』
『交友関係は狭い 同年代の子の他、年下のアリスとも仲が良い。カグヤが失踪する前は、カグヤ、ベル、ジャック、 と共に捻れ木の下で遊ぶことが多かった』
『月に1度、 やベルとよく町に行っている。カグヤが失踪する前は、2人で町に行くこともあった』
『ジャック 男性 15才』
『12才で星の声に選ばれる 就学経験あり 施設での成績は可』
『交友関係は広い 同年代の子の他、年下のアラジン、アリス、ヘンゼルとも仲が良い。時間があれば、森に行くことが多い』
『月に1度の外出は控える傾向にある』
『 』
『 』
『 』
『 』
わたしは目を凝らして、不自然に空いた空白を見つめる。
ダメだ、やっぱり何も見えない。この部分だけがつるつるとしていて、文字が書かれているとは到底思えない。それに、ここだけなぜか名前以外の文字も消えている。
おかしい。わたしの記憶じゃなくて、このページがおかしい。
更に手掛かりを得ようと、不自然に空いた空白の下を見る。わたしの情報が記された部分。そこを見て、わたしは息を呑むことになった。
『ベル 女性 15才』
『6才で星の声に選ばれる 就学経験なし 施設での成績は可』
『交友関係は広い 同年代の子の他、年下のアラジン、アリスとも仲が良い。カグヤが失踪する前は、旧精神衛生管理士であるアンデルの部屋に集まることも多かった』
『月に1度、アンや とよく町に行っている』
「……アンデル、先生?」
その文字を見た瞬間、急に目眩に襲われた。視界が歪み、また頭の中に記憶が流れ込んでくる。今度は膨大な量の映像ではなく、一部分を切り取ったような短いもの。
『これはね、おまじないなんだ』
立て付けの悪いドアと、ふかふかのソファ。わたしの目の前には、わたしの手をぎゅっと握る黒塗りの男がいる。
『おまじない?』
『そうとも。こうやって身を寄せ合うと、1人じゃないって実感出来る。ついでに怖さも消えて、寒さも忘れさせてくれる。そういう、おまじないさ』
そう言って、男はわたしの頭を撫でる。わたしは嬉しそうに目を輝かせて、男の顔を見ている。
そこで映像は終わり、わたしの意識はすぐ現実に戻ってきた。
やっと、思い出した。
アンデル先生。3年前にグリム先生と入れ違いになる形で『ドーワ』を出ていった、わたしの好きだった精神衛生管理士(カウンセラー)の先生だ。
……そうか。今朝の事情聴取の時にグリム先生から感じた懐かしさ。あれは、グリム先生の行動とアンデル先生の癖が、偶然にも被っていたから感じたものだったわけか。
関係が思い出せない、カグヤ姉。
顔も名前も、関係すら思い出せない、同年代の謎の誰か。
顔だけ黒く塗りつぶされた、アンデル先生。
少し調べただけでも、わたしはこれだけの人を忘れていた。ここにある全ての資料を確認したら、あと何人の忘れ人が見つかるのだろうか。このままだと、自分で自分が信じられなくなってしまいそうだ。
でも、わたしは苦しみと向き合うって決めたんだ。わたしはちゃんと、わたし自身を知らなければならない。
頭がクラクラするけれど、構うものか。手に持つ資料を元に戻し、今度はその前の年の資料を見ようとする。
と、その時だった。突然、背後から聞こえた猫なで声に、わたしは肩を震わせた。
「ベルおねーちゃん。こんな所で、何やってるのぉ?」
こんなほこり臭い部屋に誰かが来るのは予想外だった。だから、聞き慣れた声だったにも関わらず、わたしは体勢を崩して脚立から転げ落ちてしまったんだ。
頭を床に打ちつける。幸いにも手をつくことが出来たので、軽く頭を打っただけで済んだ。
「……いてて」
「だ、大丈夫?」
わたしの元に、声の主であるシラユキが駆け寄る。寝ぼけ眼を見開いて、心配そうにわたしを見つめていた。
まずいな、と思った。別にシラユキに見られるのは良いんだけど、人伝いにスピア先生に伝わるのは非常にまずい。
なぜなら、今、スピア先生はわたしのことをとても気にかけていて、そのわたしは午後にジャックと『ドーワ』を抜け出そうとしているからだ。
スピア先生は鋭い人だ。ちょっとした違和感から、わたし達のやろうとしていることを見抜いてしまうかもしれない。盲目の鬼職員の異名を持つスピア先生にだけは、絶対にバレてはいけない。
頭を擦りながら、わたしはなるべく自然に笑顔をつくる。
「大丈夫だよ。ちょっと頭を打っただけ。本当に大丈夫だから」
「……なら、良いんだけどさぁ。でも、こんな所で何してたのぉ?」
「し、調べ物だよ。気になることがあったんだ」
「……へぇ、そうなんだぁ」
シラユキの曖昧な返事からは、真意を読み取ることは出来ない。何も考えていないようにも、わたしの何かを疑っているようにも見える。
バレてはいけない。そう意識すればするほど、わたしの笑顔は引きつっていく。演技とか、何かを隠して取り繕うとか、そういう行為は昔から苦手なのだ。上手く出来ている自信はこれっぽっちもない。
シラユキはその寝ぼけ眼でわたしを見て、1度目を閉じる。そして、再び見開いたかと思えば、咲き誇る花のような笑みをにんまりと浮かべていた。
「でも、良かったぁ。ベルおねーちゃん、元に戻ったんだね」
「……え?」
「わたし、知ってるよぉ。おねーちゃん、最近元気がなかったでしょ。今日の朝だってぇ、挨拶返してくれなかったし……」
「挨拶、してくれてたの?」
「してたよぉ。だけど、すごく怖い顔して通り過ぎてっちゃうし、最近はアリスも元気ないしぃ……だから、ベルおねーちゃんだけでも元気になって、良かったなぁって」
それを聞いて、わたしは唐突に自分の顔面をひっぱたきたくなった。
わたしとシラユキは親友であり、家族だ。彼女がわたしを心配し、朝の挨拶だってしてくれたのに、それに気がつきもしないなんて。疑うより先に、わたしにはやるべきことがあるじゃないか。
ごめんね、とわたしは言う。
「だけど、もう大丈夫だから。もうすぐお昼だけど、改めて。おはよう、シラユキ」
「うん。おはようございまぁす、ベルおねーちゃん」
シラユキに負けないくらいの笑顔を返しながら、心の中で呟いた。
これ以上ここにはいられないな、と。
部屋にある時計を見ると、短針が11時、長針は50分を指し示している。これ以上保管室に残って資料を取りだそうものなら、本当にシラユキから疑惑の目を向けられてしまうだろう。それは何としても、避けなくてはいけない状況だ。
脚立を支えにしながら立ち上がり、一緒に食堂に行こうか、と提案する。心配をかけたくないからここで頭を打ったことは誰にも言わないでね、と念のため釘を刺して。
分かったよぉ、と猫なで声でシラユキは承諾し、わたしの手を取る。
「じゃ、行こう。ベルおねーちゃん」
彼女は黄色い瞳の寝ぼけ眼で、穏やかにわたしを見ていた。
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