7.空白の名前
< ……ございます。しっか……顔…い、……も素晴らしい1日にしましょう。 おはようございます。しっかりと顔を洗い、今日も素晴らしい1日にしましょう。 >
スピーカーから流れる、朝の放送。わたしの1日は、いつもここから始まる。
寝ぼけ眼をこすりながら、身体を起こして大きなあくび。背中と腕の筋を伸ばしながらぼーっと天井を眺め、そのまま寝癖がないか頭をチェックする。
右に1つ、左に2つ。うーん、今日はなかなかに酷いな。
相変わらずの癖毛の酷さにうんざりしながら、ゆっくりと毛布をたたむ。それからベットを降りて、もう一度あくび。両手を天井に伸ばして軽くストレッチをしてから、おぼつかない足取りで洗面台に向かう。
その途中、カーテンの隙間から朝の日差しが漏れていることに気づく。それは光の筋となって足下を照らしており、その筋を目で辿っていくと、窓際でイスに座っている1人の少女に目がいく。
朝の日差しに包まれながら、静かに本を読む少女。腰のあたりまで伸びた彼女の赤髪は、美しさを感じる程に、真っ白な部屋着に良く映えている。
「おはよう、□□」
少女は静かに本を閉じて、わたしの顔を見る。そして優しく微笑んで――けれど、少女は光の中に溶けていく。姿形は綺麗さっぱりなくなって、空のイスがわたしの目の前に現れる。
「あれ……わたし、誰に挨拶してるんだろう」
♠ ♡ ♣
今から1週間前。最後の外出を終えた、次の日の朝。
わたしの知らない誰かが、この施設からいなくなった。
その子は女の子で、わたしと年齢が近くて、朝に本を読むのが好きだったそうだ。わたしが知ってることと言えば、それくらいなもの。
『ドーワ』から人がいなくなるなんて、わたしの知る限り初めての出来事だった。だけど、いなくなった子とわたしに接点がなかったからか、あまり現実味が感じられなかった。人とは非常な生き物で、関わり合いのなかった他人が消えても、心は揺れ動かないんだ。
ああ、それともう1つ。施設内に警察が入ってきたのも、『ドーワ』史上初めてのことだった。
警察はいなくなった子について調査するため、その子の使っていた部屋を調べたり、その子と親しかった者を中心に事情聴取をしたりしていた。その中には何故かわたしも含まれていて、あまり覚えていないのだけれど、気付けば事情聴取は終わっていた。
警察の事情聴取を受けた後は、自動的に”メンタルケア”というものも受けさせられた。もちろん、それを行うのは
”メンタルケア”の内容も、やっぱり覚えてはいない。そっちも、気付いたら終わっていたんだ。
不測の事態が起きて、『ドーワ』は絶賛混乱中。下の子達の自由外出も、当面の間は禁止。だけど、わたしの日常に変化はない。いつも通りの生活を、いつも通りに送るだけ。
ただ、なんだろう。
あの日から、妙に意識が浮ついている。
言葉が頭に入ってこなくて、ふわふわと、ゆらゆらとしていて……。例えるなら、そう。夢の中にいるような気分がずっと続いていた。
♠ ♡ ♣
洗面台に辿り着いて、冷ややかな水で顔を洗う。それでも、やっぱりわたしの意識が覚醒することはない。
顔についた水滴をタオルで拭き取って、鏡に映るわたしを見る。寝癖がひどく、飴色の髪の毛はぼさぼさ。だけど、それをなおそうとは全く思えない。なおす気力が、なぜか沸いてこなかった。
――あぁ、うん。おはよう、ベル。
ふと、誰かの声が頭の中で響いた。いつもワンテンポ遅れて返ってくる、誰かの透き通った声。天使が奏でる詩のような周波数で、それでいて聞いてて心地良い、そんな声。
だけど、誰の声だったか思い出そうとしても、思い出せない。黒い鉛筆で塗りつぶされたみたいに顔が潰れている。名前を思い出そうとしても、消しゴムで消されたみたいに空白が頭に浮かんでくる。
「……どうしちゃったんだろう、わたし」
1人虚しく、鏡の前で呟いた。
廊下に出て、いつものように食堂に向かう。だけど、廊下に広がるのは馴染みのない景色。あの日以来、わたしは部屋を移されて1人部屋で暮らしている。突然の部屋替えによって、馴染みのある施設に新鮮さを感じる程に、見える景色はガラリと様変わりをしていた。とりあえず、わたしは見知った場所に出ようと足を進める。
進んで、進んで、進んで、進んで。
見覚えのある場所に出たと思ったら、そこは使用禁止になっている、元々わたしが使っていた部屋だった。
黄色いテープで封鎖された2人部屋。ベットが2つに、空の本棚、窓際にはイスとテーブルがある。
寂しさは感じない。ただ、その部屋をじっと覗いていると、なぜか心がざわつく。何の変哲もない部屋なのに、底知れない不気味さを感じ取ってしまう。
……朝から何してるんだろ。早く食堂に行かなきゃいけないのに。
すぐにその場から立ち去ろうとすると、1つ隣の部屋から声が聞こえきた。部屋の前を通りかかった時に、少し中を覗いてみる。
いつもなら、元気なアリスがお寝坊さんのシラユキを起こしている筈だ。だけど、今の2人の立場は逆になっていて、頭からつま先まで毛布を被ったアリスを、寝ぼけ眼のシラユキが起こす姿が目に入る。
『ドーワ』全体に活力を送っていた、シラユキを起こすアリスの声。わたしの習慣の1つだったものが、あの日以来なくなってしまった。
「よっ」
食堂の前まで来ると、ジャックがわたしの背中を叩く。
いつものように痛みを感じたけれど、それでもぼんやりとした意識が覚めることはない。煩わしいな、と素っ気なく思って、でも口には出さず、視線だけ返してわたしは足を前に進めた。
「さて、揃いましたね」
わたしとジャックが並んで食堂に入ると、いつもと同じ鋭い目つきのスピア先生が立っていた。いつも座っている長机にはすでに朝食の乗ったトレーが2つ置いていて、何でだろう、と首を傾げる。
わたしとジャックが席に座ると、スピア先生が話し始めた。
「さて、それでは朝の集いを始めます。まず……」
わたしは真っ先に、先生の言葉に疑問を感じた。
盲目の鬼職員の異名も持つ『ドーワ』で1番几帳面なスピア先生が、いつものあの言葉を忘れている。
「先生。いつものやつ、やらないの? ほら、『皆が揃って今日という日を迎えられたこと、わたし達は御星の健やかなる輝きに感謝いたします』って」
先生の表情が曇る。なぜ曇ったのか、わたしには分からなかった。
「ベル……やはり駄目ですか。仕方がありません。警察の方々には悪いですが、今日の事情聴取は取り止めにしてもらいましょう」
「……事情聴取?」
「ええ、昨日も伝えたでしょう。警察の方々が、もう一度あなたの話を聞きたがっていると。覚えていないのですか?」
ああ、そうだっけ。ぼんやりとだけど、何となく、ちょっとだけ覚えている。
わたしは何も考えず、考える材料すら持ち合わせずに即答する。
「大丈夫だよ。やる」
「ベル、話は最後まで聞きなさい。わたしは、その、まだ早いと思うのです。もう少し時間を空けてからの方が賢明なのではないのかと」
「違うよ先生。遅すぎる。”星誕の儀”まであと3週間しかないのに、警察がいつまでもここにいたんじゃ気が休まらないよ。やることは早くやってもらって、なるべく早く帰ってもらおう」
「……そういう言い方は止しなさい。これはとてもデリケートな問題なのです。あちらも慎重に動いてくれています。それに……そうですね、ここではっきりと言っておきましょうか。今のあなたは、普通じゃありません」
普通じゃないって、どういうことなんだろう。それを聞こうとして、わたしは口を動かす。
「わたしは普通だよ。至ってね」
しかし、わたしの口が発したのは、わたしですら予想だにしない言葉だった。
あれ、おかしい。
口が勝手に動く。わたしの身体の一部じゃないみたいに、わたしの声で、よく分からない言葉を発している。
話している内容を理解しようとしても、理解が追いつかなかった。何も、考えられない。
「……分かりました。警察には、私からそう言っておきましょう」
無理をしないように、という棘のない言葉を添えて、スピア先生は食堂を去って行く。
スピア先生にしてはやけに可愛げのあるな、なんてどうでも良いことを考える。彼女が持っていた筈のアイデンティティはどこにいってしまったんだろう、と。
その後は黙々と朝食を食べた。オーブンで焼いた食パンも、温かい筈の卵スープも、よく分からない焼き魚も、なぜかすべて冷たく感じた。吐き気を堪えながら、わたしは冷たい朝食を食べた。
ジャックとほぼ同時に朝食を食べ終え、一緒にトレーを窓口に返す。それからわたし1人で部屋に戻ろうとしたとき、ジャックがわたしの肩を叩いた。
「なあ、おかしくねぇか?」
「……なにが?」
「警察の動きだよ」
スピア先生みたいにわたしのことを言ってるんだと思ったけれど、違ったみたいだ。ジャックは難しい表情で、言葉を続ける。
「□□は、××だったんだろ? なのに、事後処理にこんな時間がかかるもんなのかよ」
「さあ。二次被害の心配でもしてるんじゃないの」
また、勝手に口が動く。
「××の二次被害って何だよ。第2第3の××者でも出るってのか?」
上手く言葉が聞き取れない。
二次災害? ××?
「なら、実は○○だったとか? ほら、わたし、警察にお呼ばれしてるし」
「いや、警察の話を盗み聞きした感じだと、××でほぼ決まりらしい。机の上に、それを匂わせる手紙と小瓶があったんだとさ」
「じゃあ、なんで警察はずっと施設にいるの?」
「その手紙のせいだよ。見せては貰えなかったけど、どうも××の理由が『虫憑き』絡みって話らしいぜ」
ジャックの話している言葉は、半分も理解できなかった。
『虫憑き』とか、手紙とか、何とか拾えた断片的な情報を集めて、これがスピア先生の言っていた『デリケートな問題』なんだな、としか情報を整理できない。
だけど、1つだけ理解できることがあった。それは、自分の感情について。
わたしは今、ジャックに対して怒りを懐いていた。
「ねぇ、ジャック。まさか探偵ごっこをしようって訳じゃないよね?」
「そのまさかだよ」
心の内側にある訳の分からない怒りは、わたしの身体を動かす。たった1つの感情が、ぼんやりとした意識を支配する。
「それはバカのすることだよ。本当に」
心の中では煮えたぎるような怒りが沸き上がっているのに、口からは出たのは冷たい蔑み。
わたしは早足で歩いて、ジャックから離れる。
「お前は本当にそれでいいのかよ!? □□が××したことを本当に認めるのか!?」
熱の入った声が廊下にこだまする。
「オレは認めねぇぞ! オレ達との生活が不幸せだったなんて、□□に絶対言わせねぇからな!」
ジャックは、何を認めないと言っているのだろう。
わたしは、何に対して怒っているのだろう。
「お前がいなきゃダメなんだ! 意味が無いんだ! オレは待ってるからな、ベル!!」
ジャックの言葉を聞きたくなくて、理解したくなくて、わたしは走った。なんで理解したくないのか、その理由すらも理解したくなかった。
途中でアリス、シラユキとすれ違った。だけど、朝の挨拶をするような余裕はなくて、わたしは無視してそのまま独りぼっちの部屋に戻った。
バタン、と扉を閉じる。
わたしだけの1人部屋に到着すると、急に身体の力が抜けてしまった。同時に大きな倦怠感が押し寄せてきて、わたしはペタンと床に座り込む。息は切れ、肺は空気をくれとわめき立ててきた。
どうやら本当にわたしは普通じゃないらしい。
黒く塗りつぶされた顔が頭にチラつく。名前を思い出せない少女の透き通った声が聞こえる。
――昼間のはお酒のせい。でも、夕食の時は……そうだね。観念して言うと、わたし、自分で自分が分からなくなったの。
自分で自分が分からない。わたしはわたしが分からない。わたしは、一体――。
壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。この訳の分からない気持ちをリセットするために、洗面器で顔を洗う。だけど、やっぱり気持ちは晴れない。乾いたタオルで濡れた顔を拭いて、曇った鏡を見た。目が充血しているのが自分でも分かった。
鏡をよく見ると、わたしの背後に小さな蝶が舞っている。どこからか入り込んだのだろう。そんなこと、心底どうでもいいけれど。
「……鏡よ鏡、わたしは一体、何がしたいの……?」
頭の中がぐちゃぐちゃになりすぎて、訳が分からなくて。だから、真実を映す鏡に答えを求めてしまう。答えなんて、返ってくる筈もないのに。
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