5.最後の外出2
噴水広場に設置された時計を見ると、まだ短針が3時を回ったばかり。施設に帰るには早すぎる時間だった。
どうするかアンと話し合った結果、アンが近くの喫茶店に入ろうと提案してくれた。断る理由がなかったので、わたしはそれに賛同した。
『ふれあい喫茶・グリーンゲイブルズ』。
わたしが初めて訪れた酒臭いお店は、店内の雰囲気とまるで異なる名前をしていた。
アンが言うには、元々ここは大人から子供まで幅広い年代をターゲットにした喫茶店だったらしい。豊富な飲み物と、自由に楽器を引ける陽気な空間が売りだったんだとか。だけど、その陽気さ故に真っ昼間から酒飲みが集まるようになり、結果的に酒場同然のお店になったんだそうだ。
だから、身体の成長が15才で止まっているわたし達は場違いも甚だしいんだけど、来るもの拒まずの精神が根付いているのか、気軽に入店することができたし、ブドウジュースだって注文することが出来た。
テーブルに座ると、近くのカウンターでお酒を飲んでいる大人達の話が聞こえてくる。
最近は首切り殺人鬼の噂を聞かなくなったとか、6年前の事件は迷宮入りだとか、いやいや夜になると細道で怪しい人影が目撃されてるんだとか。
そんな物騒な眉唾話に聞き耳を立てていると、へいお待ち、と一見強面に見える店主が驚くくらいの笑顔でブドウジュースを2つ置いていった。酒臭い大人達にも笑顔で接することが、商売繁盛の秘訣なのだろうか。
「昔はカグヤ姉と一緒に来たよね、ここ」
透き通った声でアンは言って、運ばれてきたブドウジュースに口をつける。だけどその言葉に、わたしは疑問を覚えた。
「わたし、ここには初めて来たけど?」
店の名前だって、さっき知ったばかり。アンは何度か来たことがあるような口ぶりだったけれど、わたしと一緒に来たことはないはずだ。
「え」
「いや、だからさ。このお店に来たの、わたしは今日が初めてだよ」
「そんな筈ないよ。わたしは3人で来たときのこと、ちゃんと覚えてるんだから。ほら、3年前だよ」
ふざけている様子はなかったので、わたしは真剣に3年前のことを思い出す。しかし、その頃の記憶はどうもあやふやだ。頭に残っていることもあれば、虫食いみたいにすっかり忘れてしまっている記憶も多い。『ドーワ』での生活は代わり映えしないので、記憶に残りにくい。
それでも頑張って思い出そうとはしたものの、やっぱりここに来た記憶はなかった。
「うーん、わたしは覚えてないな。というか、一緒に来たっていうカグヤ姉って人は誰?」
わたしがそう言うと、アンの動きがピタリと止まった。面を食らった様子はなく、けれど何かを悲しむように、無表情のままブドウジュースを見詰める形で。
あれ、何かまずいこと言ったかな。
それをアンに聞こうとしたとき、彼女は徐ろにブドウジュースを一気にあおった。グビッグビッ、と喉を鳴らす様は、まるでアンらしくもない豪快な飲みっぷりだった。
「ちょっと、どうしたの、アン?」
彼女はジョッキをテーブルに置いて、唇の端から零れる赤紫の液体を親指の腹で払った。
「うん、気にしないで。間抜けな自分に失望しただけ」
「間抜けって、何が?」
「記憶違いってこと。わたしはベルとここに来たことはない。こうやって一緒にブドウジュースを飲むのも今日が初めてなんだって、思い出したんだ」
「そんなの、別に失望する程のことじゃないと思うけどな。わたしなんて、しょっちゅう物忘れするし。そのあたり、アンは真面目すぎるんだよ」
うっすらと、アンの頬が赤く染まっていた。そんなに記憶違いが恥ずかしかったのだろうか。だとしたら、本当に真面目すぎると思う。
「ううん、わたしが真面目なんじゃなくてベルが不真面目なだけ。そんなことだから、またスピア先生に怒られるんだよ」
「……訂正。アンって、真面目だけど意地悪だよね」
わたしの寝癖を可愛いと言ったり、スピア先生に怒られるわたしをクスリと笑ったり。アンの言葉を借りるなら、それが彼女のアイデンティティと言えるだろう。
まぁ、今まさにアンが浮かべている意地悪そうな笑みは、朝の日差しと同じくらい彼女の赤髪に映えていると思うけれど。
「わたしさ、たまに考えるんだ。もし、星の声がわたしに来なかったら、わたしはどんな人生を送っていたんだろうって」
僅かに前のめりになって、アンが言う。
「ベルはどう思う? 自分は、何をしてたと思う?」
わたしは少し面を食らう。それは、普段の彼女ならしないような質問だったからだ。
わたしは顎に手を当てて、少しの間考え込む。
わたしは6歳で星の声に選ばれた。それから今日に至るまで、12年間ずっと『ドーワ』で暮らしてきた。だから、今になって星の声に選ばれなかった自分の姿を考えるのは、とても骨の折れる作業だった。
12年前、12年前、12年前……。
同じ言葉を頭の中で連呼して、あれ、と気がつく。
3年前の記憶以上に、12年前の記憶は虫食いが酷い。覚えていることよりも、忘れていることの方が圧倒的に多かった。
……うーん。さっきはアンをフォローするために言った言葉だけど、しょっちゅう物忘れする、というのは言い得て妙だったのかな。それはそれで、ちょっと虚しい。
わたしはアンに向かって肩をすくめ、
「思いつかないなぁ。まぁ、強いて言うなら、わたしは今頃死んでるかな、なんて」
自分で言っておいて、思わず苦笑が漏れた。こういうときに気の利いた言葉で場を和ませられないのは、わたしの欠点だ。
「わたしは真面目に聞いてるんだけどね」
そう言って、唇を尖らせてこちらを見るアン。その後、一呼吸置いてから、まるでおとぎ話の絵本でも読むように、透き通った声で話し始めた。
「わたしはね、旅をしていたと思うの。ちょっと裕福な商人の家に生まれて、ちょっと贅沢な生活を送って……だけど、弟が生まれてからは親に興味をこれっぽっちも向けてもらえなくなって。そんなわたしは、密かに夢を見るの。ああ、このまま違う場所に行って、賑やかな町に住めたらなって。そして、18才になったら家を出て、旅に出る。独りぼっちの世界旅行だよ、ベル。海辺の近くに住んでみたい。世界の反対側にも行ってみたいな。ああ、グリム先生は教えてくれなかったけど、先生が話してくれた国にも行ってみたい。そして何より、わたしは、わたしという人間を認めて貰いたかった。……あの家はわたしを全てを否定した。女に生まれたこと。本を読むこと。勉強すること。それでも、家にいたいと思うこと。否定され続けて、わたしはいつも心の中で叫んでた。お父さん、お母さん。わたしはここにいるよって……」
いつにも増して饒舌なアンの話を、わたしは真剣に聞いた。
施設にいる子は、みんな自分の過去を話したがらない。
『ドーワ』に来る前のことを話題にしてはならない、という規則があるわけではないのだけれど、それは暗黙の了解として子供達の間では根付いているんだ。
だから、アンの過去を聞けるのは貴重な機会だと思って、話に聞き入ってしまった。
そして、アンの様子がおかしいことに気付くのが遅れてしまった。
この臭い、この様子。アンの頬が赤いのは、もしかして……。
「アン、ちょっと飲ませて」
いいよ、とアンが言い終える前に、空に等しいジョッキの残りをぺろりと舐める。
案の定、お酒の味がした。
どうやら、あの強面の店主がブドウジュースと間違えて、葡萄酒を持ってきてしまったらしい。ジュースとお酒を間違える店主も店主だけど、それに気づかず飲んだアンもアンだ。普通は臭いで気が付くというのに。
「アン、これお酒だよ。飲むのやめよう」
「えー、分かったよぉ。うん」
分かったのか分からないのか、生半可な返事が返ってきた。
やっぱり酔ってるなぁ。
水を持ってくるよう店員に頼もうとして、席を立つ。
その時、アンの透き通った声が聞こえた。
「ねえ、わたしが消えたら、悲しい?」
いつもの顔だった。頬は赤く染まっているけれど、表情1つ崩すことなく、アンはその言葉を発した。
質問の意図が分からず、わたしは固まる。
「えっと、消えたらって……」
「ごめんね、困らせて。さっきのは、やっぱり嘘。代わりに、別の質問するね。ベルは、自分の創る星をどんな星にしたい?」
この時なぜか、奇妙な緊張感と重みを、アンの言葉1つ1つから感じた。答えを間違えたら、本当にアンが煙のように消えてしまうような。そういう、張り詰めた空気だった。
「暖かくって、アンが笑って住めるような星、かな……」
しばらく沈黙が続いた。
わたしは一体、何点の答えを返すことができたのだろう。そんな疑問にかられていると、沈黙を破るように透き通った声が聞こえる。あははっ、と目の前のアンが意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「わたしも、ベルが笑って住める星を創るよ。まぁ、わたしの星にはプリンもあるんだけどね」
この時ようやく、わたしはアンの手の込んだ悪戯に、まんまと引っ掛かってしまったんだと理解した。
「……もぉ、ずるい。わたしの星にだってプリンはあるよ」
わたしは、しかめ面をアンに返す。表情通り腹は立っていたけれど、それよりも安心感の方がわたしの中では勝っていて、次の瞬間には、思わず笑みを零してしまう。
少しくらいお返ししてやりたかったのに、演技下手な自分が残念でならなかった。
その後、店員さんから水を貰い、アンの酔いが覚めるまで2時間くらい雑談をした。アンが変なことを口走ることもなく、いつものように取り留めのないことを話していたように思う。外の日の落ちようにも気付かぬまま、わたし達はお喋りをした。
♠ ◈ ♡ ♣
『ドーワ』は門限に厳しく、施設に帰る時間が少しでも遅れれば、もれなくスピア先生のお叱りの対象となってしまう。
夜の町には良くないものが出る。『悪い虫』に取り憑かれでもしたらどうするのです、と。
なので、門限の6時が近いことに気付いたわたし達は、喫茶店を後にして施設に帰る道中にある古本屋に足を向けていた。
『古本屋・リュウグウドウ』。
寂れた雰囲気に古びた看板が目印の古本屋。それが、アンの行きつけの本屋だった。
店内に足を踏み入れると、ほこり臭い店の奥の方から、ちょび髭の店主が出てきた。
「ああ、アンちゃん。予約してたやつだね」
そう言って、紙袋をアンに渡した。
「ありがとう、おじさん」
アンは和やかに紙袋を受け取り、そのまま店を出た。あまりにも速いやり取り。5分も店にはいなかった。
もっと話さなくて良かったの、とわたしはアンに聞く。
「だって、話し過ぎると未練が残っちゃうじゃない。だから、あれくらいで丁度良いの」
そう素っ気なく、アンは答える。彼女は赤色の髪の末端を触りながら、真っ赤に燃える夕焼け色の空を静かに見上げていた。
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