第2話 地獄にて
水口正人は、地獄に落ちた。
字面だけならばよく見る表現かもしれないが、それはそこから受ける印象ほど生易しいものではない。
灼熱の大地、溶岩の湖、血の河──空想上の地獄をそのまま体現したようなその世界は、人の魂を本能的に恐怖させる。
正人もまた、例外では無かった。
その上、彼は地獄に関してよく知っていた。
異世界に関するあらゆる書物を読み漁った彼の知識の中には、地獄に関する知識も含まれていたからだ。
知っているが故に、恐怖はより強固なものとなる。
曰く、人の魂を永久に痛め付け続ける場所である。
曰く、この世のありとあらゆる苦痛を受ける場所である。
曰く、地獄から這い上がる事は不可能である。
正人が絶望したのは、特にこの3つ目の項目に関してだ。
「絶対に出られないなら、ここから異世界転生なんて夢のまた夢じゃねぇか……いや、待てよ」
だが、それと同時に正人は理解した。
絶対に出られない地獄から出たものが居るという事実を。
「そうだ。諦めるのはまだ早いだろ。俺はここから絶対に抜け出して、今度こそファンタジー異世界に転生してやる!」
「オマエ、なにヲぶつぶつ言っテる?」
「うおう、びっくりした!」
気合を入れて咆哮した正人の背後に、いつの間にか人が立っていた。
――ヒト、と言って良いのだろうか。現れた「それ」は目がギョロリと大きく見開き、口の端からは大きな牙が口に収まり切らずはみ出している。肌は人の物とは思えぬほどに真っ赤に染まっていて、衣服らしい衣服は腰布しか身に着けていない。
そして何より、その頭には2本の角が生えていた。
どう見ても、どう考えてもそれは空想上の「鬼」そのものであった。
「鬼!? 本物か!?」
「落ちテ来た奴ハだいたいそンな反応する。面倒だかラいっつもコう言う。『ホンモノだ』」
「はは……それは良かった」
気だるげに答える鬼に対して、正人は戦慄を覚えた。
鬼の目が――正人に向けられている筈のその目が、まるで道端の石ころでも見るかのように「興味が無い」と雄弁に語っていたからだ。
こいつにとって人間なんて虫けら程の価値も無いのだろう。正人はそう思って自分の身を守るために無意識に身構える。
――ふと、そこでようやく気が付いた。先程失ったばかりの両腕がいつの間にか元に戻っている事に。
「腕が……。間違いなく切られたのに」
「魂は、消耗はすルが消滅はしナい。苦痛もアるがそノうち消えル」
「そんな物なのか……」
何となく理解はしていたが、改めて自分が魂だけの存在だと思い知らされた。
失ったはずの両腕が戻って来たことの喜びと、非現実的な物を目の当たりにした驚きで呆然としてしまう。
正人がそのまま固まっていると、鬼の方から話しかけてきた。
「オ前、親よリ先に死ンだかラこっち。付いテこい」
鬼は後ろを振り向き、そのまま歩き始めた。
正人は一瞬だけ無視しようかとも考えたが、この状況で逆らったところで正人には何のメリットも無い。見たことも無い場所で、何人いるかもわからない敵に対して謀反を起こした所で待つのは死のみだろう。
いや、死ぬのならまだいい。ここが地獄なら、それこそ死ぬよりも辛い目に遭わされるのだろう。
従っても同じかもしれないが、少なくともこの「鬼」の反感を買うのだけは避けた方がいい。
そう判断して、大人しく正人は鬼の後ろに付いていった。
一時間ほど歩いて行くと、少しずつ地面の様子が変わってきた。
ゴツゴツとした岩の様な感触だった地面に、少しずつ小さめの石が混じって来て、最終的には大小の石が混じった砂利の上を歩かされていた。
どこまで歩かされるのか。もしかしから歩かせ続ける事が目的なのかもしれない。
そう思い始めた頃、目の前の鬼が急にピタリと立ち止った。
「おっト、ここまデだ」
鬼が立ち止るのに合わせて、正人も立ち止まる。
「賽の河原トいう。親よりモ先に死ンだ人間の行きつく場所ダ」
言われて周りを見渡す。
確かに河原の様にも見える。ここに川が流れていたならば。
確かに水なら大量に流れている。地面では無くそこかしこに座り込んだ子供たちの瞳からだが。
それは異様な光景だった。
断じて座り心地の良いとは言えない砂利の地面に、年端もいかない子供たちが座り込み、涙を流しがら石を積み上げている。
そこに居る子供たちが泣いてさえいなければ楽しく遊んでいる様にも見えたかもしれない。だが、子供たちは皆一様に苦しんでいて、さながら拷問を受けているかの様だ。
「賽の河原って、アレか。無限に石を積まされるっていう……」
「なんダ。知ってるならいい。後は勝手にやってロ」
「え、おい!」
鬼は正人の方に見向きもせずにそのまま去って行った。
「放置とか……いや、でも前向きに考えよう」
自分に無関心な鬼が居なくなろうとも関係ない。むしろ居なくなってくれただけ、あの鬼に殴られるなどのリスクが無くなったと考えよう。
正人はそう思い直し、改めて周囲を確認した。
「俺と同世代か、それより下の子供ばかりだな。でも、さっきの鬼が管理してるわけじゃないのか」
正人の知識が正しければ、賽の河原は親より先に死んだ子供の罪を濯ぐ場だ。
親よりも先に死ぬことは重罪だとされている。そのため、子供たちには文字通りの無限地獄が待っているのだ。
石を拾って、積み上げる。それを続けて石の塔を完成させる事で親の供養をするのだと言う。
しかしそれが完成間近になると、どこからともなく鬼が現れて塔を破壊していくという。つまり、その子供たちは無駄な努力を延々と続けなければならないという事だ。
「この話を聞いて最初に思ったんだよ。じゃあ、石なんて積まなきゃいいんじゃないかってな」
それが正人の考えた第一の策。そもそも完成するまで鬼が現れないと言うのなら、別に何もせずにいても変わらないのではないだろうか。
「――それはダメ」
そんな甘い考えを叱責するように、幼い少女に声を掛けられた。
歳の頃10前後と言ったところだろう。腰まで届く黒髪で、薄汚れた
「ダメって、どういう事だ?」
「ここでは、ちゃんと石を積まないとダメ。何もしないと、だんだん動けなくなっていくの。最初は足から、次はお腹と胸。それから頭が動かせなくなるの。腕が動かなくなったらもうおしまい。石を積めなくなるから」
少女は光を失った瞳で、石を積み上げる手を休める事無く正人に話しかけてくる。その姿が、それが嘘ではないと物語っているかのようだった。
「動かせなくなるっていうのは、どんな風に?」
「足を見て。少しずつ始まってる」
正人は言われるままに自分の足を見る。少し見ただけでは何も分からなかったが、よく観察すると少しだけつま先に石が付着しているように見えた。
「なんだこれ……」
思わずそれを払いのける。が、石は全く動かずに正人のつま先に張り付いている。仕方ないので摘まんで取ろうとしたところで、初めてそれに気が付いた。
石が付着しているわけでは無く、自分のつま先が少しだけ石になっているのだという事実に。
「うわっ! なんだこれ! どうなってるんだ!」
「驚いた? そうやって少しずつ石になるの。石を積もうとしない人も、疲れて石を積めなくなった人も、みんな同じ。少しずつ石になって、最後は他の石と同じになる」
「じゃあ、ここにある石って全部――」
「そう。全部、元は人間だったの」
淡々と告げる少女に対して、正人は戦慄を覚える。
この少女が特別感情が薄いというわけでは無いのだろう。おそらく何十、何百と石になって来た者を見てきたのだ。何度も何度も同じ光景を見せられ、次第に感情は擦り切れて薄れていったのだろう。
「分かったら、早く石を積んで」
「お、おう分かった! ありがとう!」
少女の催促で正人も動き始めた。まずは近場にある石を掴み、地面の安定した場所に置く。一つ、二つと積み上げていくうちに、足先の違和感が薄れていくのを感じた。
「石さえ積んでいれば、石化も解けるのか……」
「そう。だから、とにかく動きを止めちゃダメ」
そう言って少女は、その場を立って辺りを徘徊し始めた。地面を見つめながら徘徊していると言う事は、丁度いい石を探しているのだろう。ここの事情に詳しそうな少女の事だ。迂闊な行動はしない筈。ならば、そういうことだろう。
「石を探している間は、サボっているわけじゃないから大丈夫ってか」
一つずつ、必要な情報を整理する。
正人は石を積みながらも、決して思考を休めなかった。
考えるのをやめれば、ここを出る事を諦めた事と同じだ。正人にとってはその瞬間こそが己の死を意味する。
「あとは、実際に鬼を見てみたいが――」
「うわああ!!」
その時、少し離れた所から子供の悲鳴が聞こえた。
体勢を変えて、石積みをしながら悲鳴の聞こえた方向を注視する。
すると、尻餅をついた少年と、その少年に向き合う鬼の姿があった。
その鬼は正人をここに連れてきた鬼とは違い、頭が体の半分近くもある不安定な体の鬼だった。
その右手には巨大な棍棒が握られており、目の前には先ほどまで少年が積んでいたであろう石の塔が根元だけ残されていた。
「つまり、あの鬼が石の塔を崩しに来るのか。下手に近づくと怪我じゃすまなそうだ――けど」
今は、そんな事を言っている場合じゃない。それに、石化があのペースなら少しの時間なら離れてもよさそうだ。
正人は立ち上がり、少年と不細工な鬼の方へと近づいて行った。
「あのー、すいません。少しお話を聞かせて貰えませんかね?」
刺激しない様に、慎重に鬼に向かって話しかける。
しかし、鬼は返答するどころかこちらに見向きもしない。そのまま踵を返し、どこかへと去って行ってしまった。
「無視かよ……」
とことん人間の事はどうでもいいらしい。ならば逆に好都合だ。こちらもこちらで勝手にやらせてもらおう。
正人は尻餅をついたまま泣きべそをかいている少年に話しかける。
「キミ、いま鬼に何されたんだ?」
少年は怯えた様子で、おずおずと話し始めた。
「石積みが、終わりそうだったのに……またアイツが来たから……僕、必死で、石の塔に抱き着いて……」
――なるほど。それで塔諸共殴り飛ばされたと言う訳か。
これでまた一つ分かった事がある。塔を物理的に守ろうとしても無駄だ。あの巨大な棍棒でまとめて殴り飛ばされるだけ。あの鬼に素手で勝てるなら話は別だろうが、そんな事をしてもすぐに他の鬼が駆けつけるだけだろう。
石を積まない選択肢は無い。塔を守る手段も無い。
そこに入れられた者はどう足掻いても無限に石を積む事を余儀なくされる。
それが、親より先に死んだ者に与えられる無限地獄――賽の河原の全容だった。
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