どうしても異世界に行きたい
砂竹洋
第1話 異世界に行く方法
「――やっぱり最後は、これしかないか」
男はそう呟いて、眼下に広がる夜景を見下ろす。
そのビルの屋上は本来立ち入り禁止なのだが、彼にとってはそんな事は関係なかった。
つい先程までこの男には、ルールを守る程度のまともな倫理観があった。追いつめられて、最後の手段としてここに侵入した彼には、最早倫理などには縛られる必要が無くなったのだ。
「これが定番、これが定石だもんな。いいぜ、覚悟を決めてやる」
震える脚に鞭を打って、無理やりに笑顔を作る。
今日が彼にとって運命の日。彼の望みが叶うにしろ、叶わないにしろ、この場で彼の人生は大きな転機を迎える事になる。
「これ、が――俺の覚悟だぁぁぁぁぁ!」
男は、叫びながら屋上からその一歩を踏み出す。
踏み出した先に地面などは無く、このままでは重力に従って落下してしまい、コンクリートに叩きつけられる未来しか見えない。
事実、彼は例に漏れず屋上から落下を始めた。
「こ、怖っ……やばっ……っ!!」
落下に伴い、口の中に大量の空気が入り込んでくる。喋る事もままならないこの状態では、彼にはもう最後の言葉を残す事さえ許されないのだ。
感じた恐怖も、たった一瞬の事。
わずか五秒の滞空時間の内に、走馬灯など見ている余裕すらない。
脳がパニックを起こして頭が真っ白になっている間に、彼の体は無慈悲にもコンクリートの地面に叩きつけられた。
水風船が破裂した様な音と共に、彼の血飛沫と内臓が周囲に飛び散った。
…………
彼――
幼少期、特にいじめや虐待などを経験したわけでも無い。
中学時代は、卓球部に所属。運動も特別得意では無かった彼が適当に選んだ部活が長続きするわけも無く、二年の途中で退部。その後も部活には所属していない。
高校生になってからも、特にスポーツに精を出すわけも無く、家に帰ったら漫画やラノベを読む毎日だった。
そんな彼が高校二年に進学し、進路希望に「異世界転移」と書いた事は、果たして必然だったのだろうか。
当然教師に呼び出され、両親にも説教された正人だったが、それでも彼の夢は潰えることはなかった。
彼は、その説教よりも遥か前に異世界に行く方法を探し始めていたからだ。
人の居ない路地裏に敢えて踏み込んでみたり、意味も無く深夜に外出してみたり、誰も目撃していない所に身を置く事で異世界に召喚されるのを待っていた。
しかし、その努力は当然実らなかった。その程度で異世界に行けると言うなら、今頃現実は行方不明者で溢れている事だろう。
次のアプローチとして、彼は猛勉強を始めた。
異世界に行くには何らかのエネルギーが必要だと考えた彼が勉強したのは、地球の磁場、地殻変動、天体の位置関係等々、多岐にわたる。
ジャンルを問わず「大きなエネルギーが集中しそうな条件」を徹底的に勉強した。
当然その様な勉強法で学力が上がる筈も無く、親からは「あれだけ勉強してなぜテストで点が採れないのか」と再び説教を受ける事になる。
そんな説教など意にも介さず、独学の「異世界転移学」に従ってあらゆる場所に赴き、バイトで得た金で可能な限りの道具を揃え、満を持しての異世界転移を計50回以上試行した。
その努力はやはり実る事は無く、彼が収集した知識が役に立つ事は終ぞ無かった。
そして現在――彼は最後の手段として取っておいた手法を試す事にした。
異世界転移ではなく異世界転生。すなわち、自ら死を選ぶことで異世界に移動するという手法だ。
死んだら終わりの一度限りの人生。彼にとってそれは、本当に切羽詰った時の最終手段であった。
万策尽きて自殺を選び、地面に叩きつけられ絶命した彼は、果たして本当に異世界に赴く事が出来るだろうか。
――否。残念ながら現実は、それほど甘い物では無い。
…………
「――はっ! 目が覚めたって事は……成功なのか?」
死んだはずの正人が再び目を覚ました。
周りの景色は何故かぼやけており、全容を把握する事は出来ないが、屋内に居るらしいという事だけは理解出来た。
死人が目を覚ます事などない。ならば目を覚ました時点で、それは異世界転生に成功した証拠ではないかと言うのが彼の考えだった。
「そんなわけねーだろ、ばーーか」
その考えを真っ向から否定する言葉が掛けられる。
声のした方向に目を向けると、玉座の様な立派な椅子に座って一人の女が正人を見下ろしていた。
女は黒一色の妙に露出の高い服に身を包んでいて、真っ赤な長髪を指先で弄りながら怠そうに肘掛けに体重を預けていた。
「あんたはまさか――女神!? 異世界転生でお馴染みの! チートスキルを授けて異世界に送り出してくれる! あの! 女神ですか!?」
「キモいキモい近寄んな! ちげーって言ってんだろ話聞けよこのっ……ドクズ!」
鼻息荒く詰め寄る正人を足で制止しながら、赤髪の女が罵倒を浴びせる。そのまま全力で正人を蹴飛ばして床に転がした。
赤髪の女は玉座から立ち上がり、床に転がる正人を文字通り見下しながら腰に手を当てる。
「アタシの! この見た目で! 女神なわけねーだろ! どこの世界に全身真っ黒の女神が居るってんだ!」
「女神を見た事が無いから分からん! だが死んだはずの俺が会っているアンタが女神でなくてなんだと言うんだ!?」
「ああ……そういう勘違いしてやがんのか……」
赤髪の女は呆れた様に溜息をついて玉座に戻る。そして玉座の後ろに置いていた漆黒の鎌を取り出し、勢い良く床に突き立てて宣言した。
「アタシは死神だ。若くして死んだあんたの魂を回収しにきた」
「つまり俺を転生させてくれるんだな!?」
「ちげーって言ってんだろ! いい加減にしろ!」
手に持った鎌でガンガンと床を叩きながら、死神は不平を訴えた。興奮しすぎたのかぜぇぜぇと息を荒げている。
「はぁ……はぁ……。もういい、手っ取り早く済ませんぞ。水口正人、お前は地獄行きだ。閻魔の野郎が忙しいんで、略式手続で直ぐに執行する」
「地獄? これから行く異世界が地獄並みに厳しい所だって事か。望むところだ!」
「はぁ……もういいよそれで。堕ちてから精々後悔するんだな」
そう言うと死神はその大きな鎌を構えて、ブツブツと詠唱を始める。
すると、彼女の構えた鎌から暗紫色の煙の様な物が溢れだした。
初めて見る魔法の様な物に正人は興奮を隠せずにそわそわしてしまう。
「おお、すげぇ。暗黒魔法って感じの見た目だ……」
「お前ある意味大物だな……。これ、お前に向けて構えてる事理解してんのか?」
「それで俺は異世界に飛ばされるんだろ?」
「ああもー説明するのもめんどくせー。もう先に見せてやんよ」
死神が懐から鏡を取り出し、正人に向かって放り投げた。
正人が床に転がった鏡に目を向けると、鏡は一瞬漆黒に染まり、そのまま何かの景色を映し出した。
「なんだ、これ?」
「これからお前が行くとこだよ」
正人は鏡を手に持ってその光景をよく観察する。しかし、中の光景を認識できた途端、正人は勢いよくその鏡を放り投げた。
――なんだ今のは。なんだあの光景は。見た事を一瞬で後悔する程の光景が、鏡の中には拡がっていた。
一面に敷かれた針の上を歩かされる者や、順番待ちで赤い液体が煮えたぎった釜に突き落される者、生きたまま磔にされて何本も槍を突き刺されている者……まさにイメージ通りの地獄と言った光景が、そこにはあった。
「……冗談、だよな?」
冷や汗をかきながら正人が確認する。
それに対し、ようやく理解したかといった様子で死神がニヤリと笑った。
「きゃはははは! 冗談なわけねーだろ! 先に見せてよかったぜ! その顔が見たかったんだよアタシは! ――絶望に染まったまま、地獄に堕ちろぉ!」
そう叫んだ死神が、構えた鎌を水平に薙ぎ払う。
その一撃は正人には届いていなかったが、弧を描いて鎌から放たれた暗紫色の煙が正人の体を通り抜けた。
煙が通り抜けた瞬間、ぬるりとした嫌な感覚が体を襲う。
全身を蛞蝓を這っている様な不快感に顔をしかめていると、突如足元に大きな穴が開いた。
「ちょ……まっ!」
「じゃーな、また来世で会えたら会おうぜ」
自分の立つ地面が突如失われて無事でいられる人間などいない。その例に漏れず、正人も重力に従って落下する――かに見えた。
「落ちて……たまるかぁぁぁ!!」
「ハァ!? 何やってんのお前!?」
死神が驚くのも無理はない。正人は落下する直前、その四肢を穴の側面に突っ張って体重を支え、落下を回避したのだ。
「お前生前ロクな運動してねーだろ! なんでそんな力あんだよ!」
「はははは!
正人の言う事は的を得ていた。事実として、魂のみの存在となった今の正人は、自分のイメージ通りの力を出す事が出来る。
だが、逆に言えばそれは生前の自分の印象に強く引っ張られるという話でもある。
人間というのは自分が「どの程度体を動かす事が出来るか」、ある程度把握しているものだ。
だから本来、それ以上の動きは出来ないという事を魂レベルで知っている。
そのため、魂のみとなった後に生前以上の力を発揮できる者など居ない。
居ない、筈だった。
だというのに、正人はその事を「理解して」その上で「自在に使いこなしている」。
死神は、その姿に戦慄を覚えた。
それと同時に、こいつを早く処分しなければならないという危機感を感じた。
「この、早く落ちろっ! このっ! このぉ!」
「いたっ! いてぇ! だが離さん!」
死神は正人に近づいてその頭に蹴りを入れる。何度も繰り返し頭を踏みつけても、正人はまるでその手を放す気配が無かった。
それが正人の覚悟。意志の力。
異世界に転生するために自死を選んだ程の彼の覚悟は、魂の力を十二分に引き出し、このまま粘られれば穴から這い上がって来る事は間違いなかった。
そんな事されてしまえば死神の面目が潰れてしまう。
焦って蹴りの勢いを強める死神だったが、それでも彼の力が緩むことは無かった。
一体どこからそんな力が出てやがるんだ。
そう思って正人の腕を見た死神は、そこで簡単な解決法を閃いた。
それは本当に単純な一手。
「あ、そっか。腕切り落としゃあいいじゃん」
「はっ! ハッタリだね! それがアリなら最初からそうしてればいい! 何か出来ない理由があるんだろう!?」
「いやまぁ、後で閻魔のヤツにしこたま説教されっけど。逆に言えばその程度だしな。ほい」
一閃。死神の鎌が正人の頭の横を通り過ぎる。
その位置には、正人が今までこれでもかと力を入れていた右腕があった。
――正人の体から切り離され、命令を聞かなくなった腕が穴の下に落ちていくまでは。
「いっでええええええええ!!」
「きゃはは! すっげーなお前! 痛みに堪えながら、それも左手と両足だけでまだ落ちねーとか! ますます早く落としてやらにゃあいけなくなった――ぜっ!」
死神がもう一度無慈悲に鎌を振るう。
腕が切られる事が分かっていても、穴に落ちないために全力を使っていた正人にその一閃を避ける事など出来なかった。
「あっ――」
「今度こそ、あばよ」
左腕を切り落とされた正人は、今度こそ穴の底に自由落下する。
その顔は真っ直ぐ死神に向けられていたが、そんな正人を死神が哀れに思う筈がない。
死神にとっては、ただの仕事の一環。
一仕事終えた死神は、安心した様な顔で踵を返して正人に背を向ける。
正人が落ちる前に最後に見たものは、徐々に小さくなっていく穴の入り口と、そこから僅かに見えた冷たい背中であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます