ねえ、ねえ、誰か、教えて
目的の病院へは、最寄り駅から各駅列車で七駅。道中で舞とめぐみは主に祐司の話をした。
祐司が父親とずっと喧嘩状態にあると初めて聞いて、舞は高崎家の状況に同情してしまう。めぐみが、私は大丈夫ですから、と言うと、かえって辛い気持ちになった。
駅から出て五分ほど歩くと、地域でも有名な大学病院に辿り着く。中に入り、面会の旨を伝えた。
病院独特の薬品臭に、舞は入院中の嫌な記憶を思い出しそうになったが、必死に振り払いつつ五階の奥の個室に向かう。
ドアを開けると、美咲がベッドの前に一人で座っていた。動きの無い背中に、そこだけ時間が止まっているみたいだった。
「美咲さん、来たよ」
めぐみの声に反応して、美咲が振り向く。彼女はひどく疲れたような顔をしていたが、舞の姿を認めると、目を見開いた。
「舞ちゃん、なんで」
めぐみと舞は二人で頭を下げた。
「すいません、先に伝えようとも思ったんですが、言い出しにくくて……。ただ、三鷹先輩にも知ってほしいな、と思いまして」
「勝手にごめんなさい」
二人がもう一度頭を下げると、美咲は歩み寄り、二人の肩にそっと手を置いた。
「ううん、いいのよ。二人とも、アキくんに会ってちょうだい」
いつもとは違って、とても大人びた声だった。彼女の手が離れて、二人はベッドの前へと向かう。めぐみがそっと声を出す。
「来たよ、アキくん」
ベッドには、点滴やたくさんの複雑そうな装置をつけられた、色白の少年が眠っていた。
「彼が、彰彦君、ですか」
振り向くと、美咲が穏やかに言う。
「そう。この子が私の弟、彰彦なの」
待合室の自販機でジュースを買い、舞とめぐみは美咲に向き合う形で座った。美咲が窓の外を眺めながら語り始める。
「私はね、実はこの町に代々続く老舗の和菓子屋の娘なの。
もう去年でなんと創業百五十年。子供は私と二つ下のアキくんだけなんだけど、基本的には長男が継ぐって慣習があったから、ずっとアキくんが跡取りの予定だったの。アキくんもそれを受け入れていて、小さい頃から和菓子作りを積極的に手伝っていたんだ。
だけど、一つ不安要素があって。アキくん、生まれたときから体が弱くてね。重い病気こそなかったけど、何回も入退院を繰り返して。
でも元気な時は私や祐司達と一緒に遊んでいたし、めぐみちゃんはもちろん、同級生の友達にも優しくしてもらっていた」
美咲がアイスコーヒーの缶を開けて口をつける。舞とめぐみもなんとなくそれに合わせて、自分の買ったジュースを飲む。
「だけどね、私が小六、アキくんが小四の秋。二人で公園を散歩していたの」
イチョウの葉で彩られた道を手を繋いで歩いていると、彰彦は突然手を放して走り出した。
落ち葉の中から何かを拾い上げたと思ったら、まだ潰れていない、橙色のギンナンだった。
――お姉ちゃん、ねえ、ギンナンだよ!
美咲は目を輝かせて彼の下へ歩いていく。
綺麗だね、と褒めたくて手を伸ばそうとした瞬間、彼の体は不安定に傾き、落ち葉の絨毯の上に倒れ込んだ。
――アキくん!
「アキくんをおぶって公衆電話まで歩いてね、救急車を呼んで親にも連絡を入れたの。病院では、少しでも遅れたら危なかったって言われてホッとしたな。
でも、それからアキくんは全然起きないの。時々目を覚ますことがあっても、またすぐに昏睡状態になって。そんなのが何年も続いて、でも、二年前からついに一度も目を覚まさなくなったの」
美咲の目にじわじわと涙が溢れてくる。それを指で拭いながら、彼女は尚も続ける。
「親も最初はアキくんのことを信じてたけどさ、その頃から段々私に暗黙のプレッシャーをかけてきて。実はね、私、大学進学すら反対されてるんだよ? さっさと跡継ぎとしての修行に入ってほしいからって。
本当の条件は、私が継ぐか、和菓子職人の男とお見合い結婚するかってことなんだけど、結局それって同じだよね。どっちにしても私はあそこから出られないの。あ、勘違いしないでね、私だって自分の家の伝統には誇りを持ってるよ。
……だけどね、昨日春貴にも言ったんだけど、私、本当はずっと学校の先生になりたかったんだ。だからこの前の診断結果は本当に嬉しかったし、嬉しくて、嬉しすぎて、……かえってだんだんどうしようもなく切なくなってきて」
美咲は鞄の中からハンカチを取り出し、目元に当てる。
「ふふっ、ほんとに祐司の言う通りだよ。今まではずっと、純粋にアキくんに回復してほしいって思ってた。また二人で手を繋ぎながら散歩したいって。
でもね、最近よくわかんなくなってきちゃった。私はただ単に回復したアキくんを見たいのか、自分が自由になるためにアキくんに回復してほしいのか。
……本当はずっとこの現実から逃げたかったの。だから進路も未定で出して、あんな集まりを始めて、必死で現実逃避し続けて、バカみたいに焦って。
ねえ、舞ちゃん、めぐみちゃん。
私ひどいよね。カッコ悪いよね。私、本当にどうしたらいいのかな。ねえ、ねえ、誰か、教えて」
両手で顔を覆って、美咲は泣き崩れた。
めぐみと顔を見合わせたが、彼女もどうしていいかわからず口をぎゅっと結んでいる。
舞はゆっくりと立ち上がり、美咲の前に立つ。
「仲村さん」
「舞……ちゃん?」
美咲の上半身を、舞は小さな体で精一杯抱き締める。
「彰彦君だってきっと喜んでいますよ。だって、大好きなお姉ちゃんがこんなに自分のことで悩んでくれているんですから」
ううん、と美咲はくぐもった声を出す。舞は一息ついて続ける。
「だから、そんなに自分を責めないでください。そして……一人で抱え込まないでください」
美咲の嗚咽が、さっきよりも激しくなってくる。自分みたいな人間でも温もりを与えられるのなら、ちゃんと与えてあげたい。そう思って、できるだけ優しく彼女を抱き締め続ける。
今まで溜め込んできた痛みを、きちんと全て解き放てますように――。
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