どちらも「夢」



 その日も祐司は、あの夢でいつもより早く目を覚ましてしまった。

 最近は雨が続いて、河原に舞の姿を見かけなかったのだが、今日は運良く降っていない。ランニングをしていると彼女に会うことができた。


「あ、高崎君。おはようございます」


 おはよう、と返事をして、下は濡れているので彼女に倣いタオルを敷いて腰を下ろす。

 自然と、彼女の膝の上に置かれたスケッチブックに目が惹きつけられる。


「絵の方は調子どう?」


 舞はあくびを噛み殺して首を振った。


「あまり上手く進んでいません。相変わらず、このスケッチブックも開こうとしただけで体が拒絶してしまいます。あ、でも、何か納得いくものが描けたら、みなさんにはちゃんと報告しますから、期待してください」


 彼女は焦っているようだ。祐司にもその気持ちは痛いほどわかる。

 これでも十分だよと言いたくなるが、それは頑張っている彼女に対してあまりに失礼で自分勝手な行為だ。だから、今はただ、優しく見守ってあげることにする。


「ところで、ずっと気になっていたのですが」


「どうしたの」


 何か気に触ることをしてしまっていたのだろうか、と祐司は身構える。


「いえ、どうしてこの時間に来るのは時々なのかな、と思いまして」


 今朝の夢が再び鮮明に思い出される。もう今までに何十回と見てきたはずなのに、やはり思い起こす度に舌打ちしそうになる。


「言ってもいいけど、笑わない?」


「はい、大丈夫ですけど」


 いまいち意味を掴めていなさそうな彼女を横目に、祐司は言う。


「時々、いつもより早く起きるんだけどね、それは悪夢のせいなんだ」


「悪夢?」


「うん、肘にボールを食らった、まさにあの試合の夢」


 舞がハッと口を手で押さえる。彼女の目を見ないようにして、気にしないで、と祐司は手を振る。


「ほんとに情けねえよな。夢なんかに怯えて目を覚ますんだぜ? しかももう何十回と」


 いざ口に出してみると、どうしようもなく情けない話だと改めて思う。

 いつも心配をかけていためぐみを除いて、悪夢のことを他人に話すのは初めてだった。それは、他人から臆病者と言われるのを恐れている、本当の臆病者だからだ。


「情けなくなんかないです」


 舞は、苦しそうに、だけどはっきりとそう言った。


「高崎君にとってそれは一番辛いことなんですから。何もおかしくないです。それに、私も見るんです、あの日の夢」


 そうか、と祐司は思う。舞もまた、抗いがたい過去の幻影にとらわれている。


 夢というものは形がないからこそ、視覚に絶対的な恐怖を植え付け、放してくれない。

 そんな、他人には通じにくい、同じ痛みを味わう者同士だからこそ、伝わることはたくさんある。


「ありがとう、なんだかちょっと気が楽になったよ」


 彼女は微笑んで、私もです、と小さく呟いた。

 背後で車の往来が途切れ、それを見計らったかのように、電車の到着メロディーが遠くから聞こえてくる。


「それにしても、夢、ねえ」


「私達が探しているものは『夢』。囚われているものも『夢』ですね」


「はは、言葉って面白えよな」


 将来の夢、悪夢。確かにどっちも「夢」だ。

 意味はそれぞれ全く異なるが、どちらの「夢」も、自分達を引っ張り回しているものだ。「夢」は、自分達の力ではどうにもできないものなのだろうか……。


 祐司は溜め息をつく。下の遊歩道では、近くの体育大学のジャージを着た数人のランナーが通り過ぎていく。道の上で仲睦まじくしていた二匹の雀が慌てて同時に飛び立ち、川の向こう岸へと去っていく。


「あ、三鷹さん、逆に質問していい?」


「はい、何でしょうか」


「三鷹さんさ、雨の日以外は大抵ここにいるけど、早起きじゃなくて夜更かしなんだよね?」


 祐司の質問に、舞はびっくりしたように背筋を伸ばす。


「前に徹夜がどうこう言ってたしね。学校でもずっと寝てるし、俺と同じ生活リズムならいくらなんでもあそこまでは眠れないと思うよ」


「ああ、なるほど……」


「それがずっと気になっててさ。勉強かな、とか、絵のことを考えて眠れないのかな、とか」


 彼女は恥ずかしそうに首を振る。


「そんな、そんな崇高なものじゃないです」


 崇高って、と祐司は笑ってみるが、彼女は尚も気まずそうにもじもじしている。


「……笑わないですか?」


「大丈夫だって」


 チラッと祐司の顔を確認して、観念したように舞は言った。


「マンガを読んでるだけなんです」


「マンガ?」


 予想の斜め上の答えに、素っ頓狂な声が出てしまう。


「ずっとハマっている作家さんがいまして。リハビリしていた頃に出会ったんですが、ストーリーはもちろん絵が本当に私好みで。何度も読み返して、過去作にも手を出して。ちなみに前田さんとは、その繋がりで仲良くなったんです」


 そう言えば、と祐司は思い出す。四月の頃、沙織と舞が袋に入れた何かを交換しているところを見たことがあったのだ。

 確かにタイプの違う沙織と舞のどこに接点があったのかはずっと疑問で、ようやく腑に落ちた。


「それで、マンガに熱中していたらいつも四時頃とかになるってこと?」


「はい。元々散歩は日課だったんですけど、今は、ああ、もったいないことをしているな、っていうのを言い訳するような意味も込めて、毎朝散歩しているんです。私はこのために起きているんだよ、って」


 祐司は思わず、あはは、と笑ってしまう。膝を抱える舞になじるような視線を向けられる。


「ごめん、ごめんって。でも、三鷹さんらしいなって思って」


「私らしい、ですか」


「うん。三鷹さん、絵を描いてるときとかメチャクチャ集中してるじゃない。きっと本当に好きなものには没頭できちゃうんだろうなって。いいじゃん、そういうの。俺は好きだよ」


 祐司がふと横を見ると、彼女は膝の中に顔を埋めている。あ、拗ねさせちゃったかな、と思って謝ると、彼女はそのままの姿勢で首を横に振ったので、怒っている訳ではないようだ。


「それに、そんなにいいのなら、俺も一回読んでみたいな」


 彼女は顔を上げた。その頬は赤く染まっている。


「え、でも、少女漫画ですよ」


「そうなの? でも、昔はめぐみの持ってるマンガとかよく読ませてもらってたし、そこまで抵抗はないよ」


「あ、それなら……」


 突然、きゃあっと声を上げて舞が寄りかかってきた。

 何事かと思って彼女の指さした先を見ると、小さなイモリがちょろっと動いていた。その周りに生い茂っている雑草を祐司が足で蹴ると、イモリは慌ててどこかへ去っていった。


「イモリだよ。水辺だからこの辺りには結構いるけど、怖がることはないよ」


「いえ、私ああいうのが苦手で……ありがとうございます」


 二人は、はたと同時に気が付いた。

 舞は祐司の左腕にしがみついていて、祐司は彼女の肌の柔らかさ、彼女の手の温度を感じる。

 顔の距離はいつもよりずっと近くて、見つめ合うとお互いの顔に息がかかりそうで――。


「わあああっ」


 舞はパッと祐司から手を放し、祐司も反射的にのけぞる。

 お互いに心を落ち付かせつつ、チラチラと互いの様子を窺う。最初の倍ほど離れた位置のまま、舞が口を開く。


「あ、ええと、マンガの話でしたよね!」


「そ、そうそう」


「今日、学校に一巻を持っていきます。それでもしハマったら、今度うちに来てください」


「え、三鷹さん、の、家?」


 脈絡があるようなないような。俺が女の子の家に?

 しかし、舞は自分以上にパニックになっているらしい。


「いえ、そういう意味じゃなくて。あの、姉が。そう、姉が。高崎君と御堂君と仲村さんに会ってみたいって前に言っていたので、その」


 よくわからない身振り手振りをつけながらの説明に、祐司はようやく意味を掴めた。ゆっくり呼吸を整えて言った。


「わかった、わかったから。とりあえず、それじゃあ一巻の方よろしくね」


 舞に再度確認をとると、祐司はすぐに坂を下りていった。このまま彼女を置いていくのも心配だが、自分がいた方がまずい気がして、そして自分もこの空気に耐えられる気がしなかったのだ。

 ある程度走ってから振り返ると、彼女は再び膝の中に顔を隠していた。



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