お前にはまだ期待しているよ
ゴールデンウィーク中の日曜日、祐司は母親と共に高校の敷地を歩いていた。
「ええと、テニスコートはどっち?」
「もう、わかんねえなら先に行くなよ。校舎裏。左だよ左」
あくびを噛み殺しながら、母親の前に立って引率していく。
今日はめぐみが高校で初めてのテニスの練習試合だということで、絶対見に来てね、と言われていた。父親が仕事なため、母親と二人で。
久々に来た休日の学校は、連休中なのに相変わらず部活で賑わっている。
陸上部がさっきから掛け声と共に校舎の周りをランニングしていて、吹奏楽部が音楽室で音出しをしているのが聞こえ、グラウンドからは金属バットの小気味良い打撃音が聞こえてくる。
五月晴れの空から降り注ぐ日射しは、朝とは言え首元を焦がすように暑く、寝不足の体にはやや辛いものがある。母親はお気に入りの淡い水色の日傘をさしている。
「ねえ……祐司」
彼女の傘の作る影が、後ろに流れていく。
「昨日お父さんと話してね。これから、進路はどうするの」
自分の影が、その場に貼りつく。父親の眉間に皺を寄せる顔がその上に浮かぶ。
「私は祐司がやりたいようにやったらいいと思うから、何か無理強いしたりはしない。でも、今の成績なら大学進学も厳しいんでしょ? ダラダラしてるくらいなら塾とか予備校とか行った方がいいんじゃない」
「……わかってる。最近色々考えてるところだから」
振り返ることなく歩き始める。母親が背後で小さく溜め息をつくのが聞こえた。
先日の適職診断の結果は、案の定と言うかスポーツ関連が断トツで一番だった。
今朝、思い立って舞にその話をすると、彼女は苦笑いを浮かべて言った。
「私もアートとか芸術の系統が一番でした。やっぱり、そういうものなんでしょうね」
「そういうもんなんだろうな」
二人で声を揃えて笑い、やがて虚しい気分になる。
「あ、私、実は二番目のものも割とポイントが高かったんです」
「へえ、どんな仕事?」
「科学系の研究です」
少し考え、言った。
「三鷹さん、うちのクラスにいるってことは文系だよね」
「はい。……だから関係ないですよね」
二人でまたも虚しく笑ったのだった。
結局誰しも、今まで積み上げてきてしまった自分や、育ってきた環境からは逃れられないのだろうか。春貴もそういう結果だし、そもそも美咲は……。
「あ、あれめぐみじゃない? めぐみー!」
突然母親が後ろから叫ぶ。いつの間にかテニスコート前まで辿りついていたようで、休憩中なのかベンチに座るめぐみが手を振ってきた。
案外余裕そうだな、と思ったが、近くまで行ってみると、彼女が顔を強張らせてぎゅっとラケットを握り締めているのが見て取れた。
「めぐみ、せっかくのデビュー戦だ。力まずに楽しんでいけよ」
フェンス越しに声をかけ、親指を立てて左腕を突き出すと、彼女も恥ずかしそうにこちらに向かって同じポーズをとる。
「うん、わかった。こういうときのお兄ちゃんのアドバイスは心強いよ」
友人から声をかけられて、今行く、と彼女は答えた。
「じゃあ、頑張ってくるね」
「しっかりね」
母親と手を振り合って、めぐみは駆けていった。祐司と母親はテニスコート脇の階段に腰掛けて、時計を確認する。
「まだ試合まで二十分くらいあるね」
「あ、じゃあ俺、ちょっとトイレ行ってくる」
「あ、私も後で行こうかな。場所だけ教えてくれる?」
道順を手早く教えて、祐司は校舎へと駆けていった。
屋内はひんやりとして涼しかった。トイレで用を足し、首筋を水で冷やす。
校舎をぶらぶら歩いていると、窓越しにグラウンドが見えて、野球部の守備練習の声が聞こえてきた。
――バッチ来い!
――オーライ、オーライ!
先日まで行われていた春季大会で、野球部は県ベスト八という結果だったと聞いている。さすがに私立の強豪校の選手達は成長が凄まじく、それに追いつけずに秋よりもいくつか順位を落としたとは言え、十分な好成績。間違いなく今のこのチームには力がある。
ここで例えば今年の一年生に有力な選手がいれば、夏はさらに……。
ふらっとグラウンドの方へ足が向く。
フェンスの遠く向こうではレギュラー陣がノックを受けている。ショートが果敢に飛び込み、ライトが去年以上に磨きのかかった強肩っぷりを見せつける。左右に自由自在に打ち分けるバッターは監督かと思ったが、よく見ると望のようだ。
「高崎、何してる」
後ろからヌッと影が現れる。百八十センチ台と背が高い祐司を、見下ろせるような男は。
「かん……鎌田(かまた)先生、お久し振りです」
野球部顧問の鎌田が、自慢の顎髭を触りながら祐司を怪訝そうに見ていた。年齢は三十半ばでスッキリとした顔立ち、しかし背丈と髭のおかげで相変わらず貫禄がある。
その手には大量のプリントを持っていて、職員室からの帰りだろうか。
「『監督』でも俺は構わんけどな。どうした? うちの部が気になって来たのか」
「いえ、今日はテニス部の妹が試合で、応援に来ただけです」
妹、という言葉にピンと来たようだ。
「ああ、いつも親父さんとかと見に来てくれていたあの子か。この高校に入ったのか」
「はい。今は一年四組です」
「そうかおめでとう。どうだ、今からでもうちのマネージャーとかに誘うのは? うちの部員も『祐司の妹さん可愛いよな』なんてお前によく言ってたしな」
鎌田の言葉に驚く。
「ええっ、先生、そんなことまで聞いてたんですか。怖いですって」
「あはは。何といっても監督だからな。まあ、今だから言えることだよ」
グラウンド上の声のトーンが上がる。ランナーを塁においての実践的な練習に移ったようだ。
「いいチームになっただろ」
鎌田が言うと、少し後ろめたい気持ちになりながら頷く。
「ずっと、どれだけ運が良くても県ベスト十六が限界だったこの野球部を、高崎、神田川、お前らの代の力でここまで引っ張ってこられた。正直恩に着るよ」
再びグラウンドを眺める。セカンドがエラーをして、悔しそうに一際大きい声を上げている。
「それでもこんないい雰囲気を作れたのは、先生と望のおかげです。俺は引っ張っていってるように見えて、先生と望がいなければきっとあそこまで辿りつけませんでした」
鎌田はまだ三十代と若く、経験不足を他の要素できちんとカバーできるいい監督だ。
普段の練習は熱血だが、その裏にはきちんと理屈が通っていて、生徒に必要以上の無理強いはさせない。それは望のスタイルとも一致していて、西高野球部は二人の相乗効果で強豪になれたのだ。
もっとも、祐司がそれに気付いたのは、部を辞めて少ししてからだったのだが。
「現にですよ、ピッチャーもちゃんと育ってきてますよね。俺じゃなくてもチームは成り立ってます」
鎌田はグラウンドを見つめながら、ほうっと息を吐き「確かにな」と呟く。
「俺はもう、無理矢理お前を部に戻そうとは思わない。惜しいのはもちろんだが……今まで友人でも生徒でも壊れた奴はいくらか見てきて、多少はわかっているつもりだ。もっとも、その辺りが一皮むけきれない原因なのかもな、俺も、お前も」
初めて聞いた彼の弱気な言葉、そして自分への真摯な言葉。祐司は息を呑んで彼を見上げる。
「だけどな、高崎。一度グラウンドを出てみれば色んなことが見えてくるはずだ。……だから、やっぱりお前にはまだ期待しているよ」
鎌田はフェンスについた扉を開けて、バックネットの方へと走っていった。彼の姿に気付いた部員達が次々に挨拶の声を上げる。その声を背後に聞きながら祐司は立ち去った。
テニスコートに戻ってみると、もう試合が始まっていた。
「トイレ長かったわね。何してたの」
「ちょっと散歩」
母親はふうん、と言って試合に意識を戻す。
目の前のコートではめぐみが必死にボールに食らいついている。まだ一セット目だというのに、どうにも動きが鈍い。
「あの子、やっぱり緊張してるわね。頑張れー!」
高校で初めての公式戦と言うこともあるが、中学では(硬式が部活になかったため仕方なく)軟式テニス部に入っていた彼女にとって、念願の硬式球での初試合だ。緊張半分、興奮半分で自分を制御しきれていないといったところか。
祐司はふと昔の自分を、高校に入って初めて出場した試合のことを思い出した。
硬式球を触り始めて実質まだ二ヶ月、まさに今のめぐみのような状態で、手汗でボールが滑り滅多打ちにされた試合。そんな中でも一球一球に課題を見い出し、途中で三振を奪うと思わず笑みがこぼれた。
あのときは、そうだ。ただ楽しかったんだ。
「めぐみ、笑っていこうぜ!」
声が聞こえてくれたのか、苦しそうな顔をしていた彼女は一瞬だけニコッと微笑んだ。その直後のラリーで、
「やった、拾った!」
難しいロブを拾って、初めてめぐみがゲームを取った。こっちを振り返って満面の笑みを送ってくる。
「めぐみ、ここから逆転よー!」
母親もめぐみも、こんなに活き活きしているのを見るのは久々だな、と祐司は思った。
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