やっぱり描けない



 翌日の二時間目、英語の授業。


「じゃあ、ここを戸村とむら、訳してくれ」


 岡野に当てられ、はあい、とやる気なさそうに、最前列の席の男が教科書の訳を読み上げていく。

 祐司はチラッと斜め後ろの舞の様子を窺う。


 今日の彼女は寝てはおらず、代わりにぼーっとグラウンドを眺めている。

 どこかのクラスがサッカーでもやっているのか、ボールの弾む低い音が窓から遠い祐司の席まで聞こえてくる。


 少し首を伸ばして彼女のノートを覗いてみる。

 絵が描かれていないかと期待してのことだが、そこには残念ながら文字が並んでいるだけだ。




 昨日、舞が泣き止むのを待って、祐司は自分の見た絵について尋ねてみた。彼女は悩むように、小さな顔を曇らせた。


「どうしてあのときは絵を描けたのか、不思議だったんです。教室をぼんやり眺めていたら、いつの間にか手が動いていて」


「それってもしかして、トラウマを克服し始めてるんじゃないの?」


 美咲の期待するような言葉に、舞は、残念ながら、と言いたそうに首を振る。


「その日、帰宅してもう一度絵を描いてみようとしました。ですが、やっぱり手が震えて」


「なんだろう。もしかしてうちの教室にいたら描けるとか」


「それも思いましたが」


 すでに実行したということだろう。舞がまたしゅんとなる。春貴が祐司と美咲を軽く睨む。


「今日はもうこの話はしない方がいいんじゃないか? それに時間も遅くなってきたし、帰した方がいい」


 怒られた二人は体を縮めて頷く。結局それきりにして、三人で舞をマンションの傍まで送っていったのだった。




 もう一回くらい絵を描くことに挑戦したりはしないのかな。あるいはもうやってみてやっぱりダメだったとか。

 祐司がそんなことを考えていたときだった。


「じゃあ、次、三鷹。ここの訳を頼む」


 ほとんど授業を聞いていなかったであろう舞が、はい、と驚いたように反応する。前の席の女子に、訳の場所を聞いて立ち上がる。


「ええと、『私は第二日曜日になるとその街を訪れたものだった、そのとき』……」


 そこで詰まってしまい、ぶつぶつと呟いては首をかしげている。


「そこのwhenは接続詞じゃないか?」


 岡野の指摘に、ああ、と納得して訳を言い直した。正解だったようで岡野は黒板に向き直る。


「よし、そうだな。あー、ここで大事な単語は……」


 舞の方を盗み見ると、彼女は席に着いてふうと息を吐いていた。ふとこっちと目が合い、恥ずかしそうに小さく会釈をされた。


 学年でも下の方の成績である自分が言うのもなんだが、どうも彼女は勉強が苦手な方のようだ。やはり今まで絵の勉強が中心で、なかなか普通の勉強に力を入れてこられなかったのかもしれない。


 ――報われないと、なんだか可愛そう。


 美咲の言葉を思い出す。

 絵のこと、人間関係、見知らぬ土地、勉強。

 今まで気にしていなかったが、彼女は今きっと相当苦労している。報われてほしい。いや、報われないといけない。


 ふと自分のことを思い返す。自分はあのとき、それくらいまで頑張れていたのだろうか。


 リハビリで神経がすり減り、成長していくライバルの姿に焦り、何もできない自分に苛立ち、尚も続く周囲の期待に押し潰されそうになって……。


 自分の頬をつねる。


 いいんだ、もう終わったことなんだ。


 そう無理矢理言い聞かせて、授業に集中することにした。



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