才能なんか、無ければ良かったんですよね




 舞と、その姉の京子は、子供の頃から絵が得意だった。

 港町で魚屋を営む両親は絵など全然わからないごく普通の人達だったが、絵が好きな京子がまず絵画教室に通い始め、やがて成長した舞も親にお願いして通うようになった。


 スタイリッシュな絵を描く京子と、繊細な筆致で躍動感ある絵を描く舞。二人の実力は図抜けていて、先生や友人にも何度も誉められた。ずっと、好きな絵を好きなだけ描ける幸せを二人で分かち合っていた。


 六つ年上の京子は美術系の高校、短大の美術科と順調に進みデザイナーとなった。

 舞は姉とはまた別の美術系の高校を受験し、無事合格。授業でも堂々と絵を描ける嬉しさに浸り、一年生の頃からいくつかの賞に入選した。レベルの高い仲間と切磋琢磨し、毎日が充実していた。


 当時所属していた絵画部に、舞の憧れの女の先輩がいた。


 出会ったのは一年生の部活見学の時期のこと。ふらっと部室の前を通りがかったときに、窓越しに見えた絵に目が留まった。

 柔らかなタッチで、どこか異国の爽やかな朝を描いたその絵は、舞が今まで見てきた他の誰のものとも――もちろん舞のものとも――異なり、独特の魅力を放っていた。


「新入生の子かな?」


 背後からかけられた声に、舞は「わっ」と大きく反応してしまう。振り向くと、一人の快活そうな女子生徒が立っていた。


「はい、すみません。三鷹舞です」


「舞ちゃんね。私、上月穂波こうづきほなみ


「ええと、あの絵はどなたが」


 舞の指が示す方へと顔を覗かせ、穂波が言った。


「あれ? ふふ、あれは私の。自信作」


 ニッと真っ白な歯を覗かせて笑うその先輩に、舞は一瞬でファンになってしまった。


 穂波は二年生ながら学校でも断トツに絵が上手くて、校外でも高く評価されていた。舞も度々教えてもらい、ますます絵が上達していった。

 彼女は三年になると名門芸大を目指し勉強を始め、また忙しいながらも部長として部をよく回していた。


 代々、部長には専用のスペースが与えられてきた。そこで黙々と描き続ける穂波の姿、その迷いのない手から徐々に絵が全様を現していくさまに、舞はいつもうっとりとしていた。


 季節は秋で、穂波の第一志望の推薦入試直前だった。

 部活休みの日曜日の翌朝、舞がもう少しで完成しそうな絵の仕上げに部室に向かうと、何やら室内から感じる空気がいつもと違う。

 嫌な胸のざわつきを覚えながら足を踏み入れると、床に大量の紙や布が散らばっていた。


 なんだこれ、ひどい。舞はそう思いながら足元の切れ端を一枚拾い上げる。


 それは、穂波の描いた絵の断片だった。


 もしかして、と教室を見回すと、やはり散らばっているのはどれも穂波の絵の残骸で、いつものスペースで彼女が呆然と立ち尽くしていた。

 断片を踏まないように近づくと、彼女はゆっくりと振り返り、倒れ込むようにして舞の胸に顔を埋めた。


「舞ちゃん、私、私……」


 彼女はそれから一度も学校に来なくなった。連絡すら一切取れなくなり、しばらくして、入試も受けなかった、という噂も流れてきた。

 しばらくは学校中に不穏な空気が流れていたが、犯人は見つからず、少しずつ事件は風化し始めていた。


 十一月の末のある日、部活から帰ろうとして、舞は忘れ物に気付き校舎に戻った。

 部室に近づくと、何人かの三年生と二年生が何やら楽しそうに話しているのが聞こえてきた。こんな時間にまだ残っているのか、くらいに思っていたが、


「にしても、穂波の奴」


 そのワードに、舞は敏感に反応した。教室の前で聞き耳を立てる。


 まとめると、穂波の才能に嫉妬し続けてきた彼女達は、このままじゃ面白くないからと、一番ダメージを受けそうな試験の少し前の時期を狙って犯行に及んだのだという。


「けど、不登校とか不受験はさすがにいきすぎ!」


 誰かが下品な口調で言い、笑いの渦が起きる。その瞬間、舞の堪忍袋の緒が切れ、教室に飛び込んだ。


「穂波先輩を、悪く言わないでください!」


 そこからは一方的に言い続けた。

 才能がなくても努力で補えないあなた達が悪い、絵を描く者としてやっていいこと悪いことがある、とにかく思い付くままにそんな風なことを喋った。

 普段の自分なら絶対にそんなことはしないだろうに、尊敬する先輩のために、自分の大好きな絵のために、必死になっていた。


「もう、見損ないました!」


 最後にそう言うと、舞は忘れ物を掴んで部屋から走り去った。


 走りながら、彼女は冷静さを取り戻した頭で恐怖を感じ始めていた。こんなことをして、ただで済むはずがない。


 不安は的中する。 

 次の日から執拗ないやがらせが始まった。絵の具がいくつか抜き取られていたり、描きかけの絵に足形がついていたり。

 本来内気な舞は先生に相談することもできなかった。何人かの友達は心配してくれたが、それも巻き込まれたくないからか少しずつ離れていく。舞は、一人でひたすら耐え続けていた。


 十二月になり、その地方では珍しい雪の降る日のことだった。

 舞が部活からの帰り道を歩いていると、携帯に電話がかかってきた。相手は穂波の事件に関わっていた同級生で、部室に忘れ物をした、悪いけど取ってきてほしい、という内容だった。

 彼女の家は帰宅途中に通れるので断れるような理由もない。舞は仕方なく引き返して薄暗い校舎に入った。


 職員室で先生に事情を説明し、鍵をもらい一人で部屋へと向かう。

 階段を上る度に自分の足音が響き、舞は少しずつ怖くなってくる。外では雪がちらつき、寒々しさがいっそう不安を煽る。


 部室の鍵を開けて、数歩進むと足にクシャッという感触が伝わる。

 確か今日は私が床を掃除したはずなのに、と気付いた瞬間、体が震え始めた。


 まさか、まさかね。そう思いながらも、部屋の電気を点ける気にはなれない。小さな歩みで部屋の中を歩いていく。


 コツッ、コツッ、クシャッ


 またも紙を踏んだようで、体が硬直する。

 恐る恐る携帯を取り出し、ライトを点けた瞬間。


 目の前には、自分の絵が何枚も、ビリビリに破かれて大量に散らばっていた。


「きゃああああああ!」


 舞は頭を抱えてその場に崩れ落ち、体を大きく震わせた。

 歯をカタカタ鳴らして小さく顔を上げると、立てかけていた自分の絵の上に汚く落書きがされていた。



――才能あるヤツは黙っとけ


――消えて、天才ちゃん



「そんな……」


 ふっと自分の体から力が抜けていき、舞は絵の残骸の上に横たわった。

 心配して先生が駆け付けるまで小一時間、意識はあるはずなのにその場からピクリとも動けなかった。




 学校には行けなくなり、舞は入院を始めた。その後結局犯人は特定されたのだが、その頃の舞は抜け殻同然の状態でカウンセリングを受けていた。


 一時は病院の待合室の絵を見るだけで吐き気がした。人を信じるのも怖くなって、しばらくは家族や学校の先生以外の人との会話もままならなかった。

 会話ができるようになってからも、学校の友達は気を使ってか、あるいは後ろめたさを感じてか連絡してくることはなかった。


 一か月ほどで、なんとか舞は普通の生活ができるくらいには戻ったが、一つ問題があった。


 全く絵を描けないのだ。


 字は書ける。表やグラフも書ける。なのに絵を描こうとすると、頭が拒絶反応を起こす。それでも理科で使う簡単な図程度ならなんとか描けるようになったが、それまでだ。


 舞にとって特に辛かったのは、いつも散歩のときに肌身離さず持ち歩いていたスケッチブックを開けなくなったことだ。

 過去の自分の絵を見ると眩暈を起こし、描こうとするとヒステリーになる。それでも一度身に着いた習慣、持っていないとそれはそれで不安になってしまう。

 引っ越してからも朝の散歩のときに持ち歩いて、試しに開こうとして、頭を抱えてうずくまる。




「結局」


 できるだけ淡々と語ってきたが、もうそろそろ限界だった。


「絵の才能なんか、なければ良かったんですよね」


 精一杯笑ってみたが、ボロボロと落ちる涙を止めることはできなかった。


 悔しそうに拳を握る春貴と祐司。その横から美咲が飛び出し、舞は抱き締められた。


「三鷹さん……舞ちゃん、よく、よく頑張ったね」


 背丈、口調、体の柔らかさ。


 あっ、この感じ、お姉ちゃんに似ている。


 彼女の温かさに身を委ねながら、舞は小さな子供のように目いっぱい泣いた。






 昔は、何か嫌なことがある度に泣いていた。


 クラスの男の子にいじわるされたりして、一人で泣きながら帰って。


 働いていて忙しい両親の代わりに、いつも姉の京子が玄関で出迎えてくれた。


 その場で抱き締めてくれて、背中を撫でてくれる。


――舞ちゃん、晩ご飯のお買い物に行こっか。


 時々、京子が料理を作ってくれる日があった。しっかりと自分の手を握って、優しく話しかけてくれる。


――今日は、舞ちゃんの大好きなシチューにするね。


 その一言で思わず笑顔になる。


――うん!






 姉の作ったシチューをスプーンですくい、舞はそっと匂いをかぐ。ほんのりとした甘さとバジルの香りが鼻孔をくすぐる。


「何してるの?」


「ううん、なんでもない」


 姉の問いかけを誤魔化そうと、そのまま口に持っていく。まろやかなシチューの味と、絶妙な柔らかさのにんじんに舌鼓を打つ。


「ちょっと昔のことを思い出して」


「昔のこと? ああ、舞ちゃん、昔はほんとシチュー大好きだったわね」


「今でも」


 京子は嬉しそうに、ありがとう、と言う。


「今日」


「ん?」


「友達に、前の高校のこと、話して」


 心配そうな表情をする姉に、舞は今日の一部始終を話した。話し終えると京子は目に涙を浮かべ、テーブル越しに腕を伸ばしてきた。頭を差し出すと、労わるように撫でてくれる。


「舞ちゃん、本当に、いい友達ができて良かった」


 うん、と優しい声が出る。姉の手はどうしてこんな安らかな気持ちにさせてくれるんだろう。


 ふと彼女はその手を放して、目を弾ませる。


「ねえ、今度そのお友達を連れてきてよ! お姉ちゃん、お礼を言いたいし」


「え、ちょっと、お礼なんか」


「いいの、私が勝手にしたいだけだから。よろしくね」


 そう言うと京子はシチューの残りをたいらげる。


「さて。これから仕事するから、お皿洗いは任せた!」


 彼女はわざとらしく敬礼してリビングの方へと去っていった。本当にマイペースな人、と舞は苦笑する。


 でも、あの三人が来てくれるのは、楽しいかもしれない。


 それなら部屋の片付けもしなきゃ、と思いながら、舞は二人分の皿を流しへと運んでいった。



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