父親との確執
その日、気分が乗らずに、祐司は久し振りに病院でのリハビリをサボった。
机の前に座ってぼんやりし、時々無意識に右肘を触っては、鈍い痛みに我に返って溜め息をついた。徐々に陽が傾き、陽が沈み、そして夜が訪れた。
毎朝のランニングは欠かさず続けていた。しばらくは望と鉢合わせないように気を配りながらだったが、走る途中でよく会う大学生から、彼なら夜に走っていると聞いて一安心した。しかし、彼と会った日から、走る度に虚無感を覚えそうになってしまう。
日課だったランニングが惰性になり、惰性だったリハビリはサボるようになった。
こういうのってスライド式になるもんなんだな、と祐司は妙な関心の仕方をする。
夕食の後、ベッドでぼんやり目を閉じると、瞼の裏に舞の描いていた絵が浮かんできた。
絵なんて興味がないし、美術なんていつも赤点ギリギリでここまできたような人間だ。なのに、あの舞の絵は不思議と心を惹きつけてやまない。
自分にはその感動を表現する言葉が備わっていない。
ただ、とにかく素敵だと感じた。
単に上手いとかじゃなく、三年一組というクラスの雰囲気がそのまま投影されたような、あの絵の登場人物がそのまま動き出しそうな、そんな錯覚すら覚えた。
始業式の日に美咲と交わした会話を思い出し、ほら、やっぱりちゃんと絵を描ける子じゃないか、と美咲に心の中で呼びかけ、勝手に優越感に浸る自分に苦笑する。
しかし、彼女のあの怯えは一体? スケッチブックの件と言い、何があるのだろうか。
しばらく悶々と考えていたが、答えが出るはずもない。
十二時を回っていることに気付き、風呂に入ろうと階下に行く。
薄暗いリビングではテレビがついていて、ソファに誰かが寝転がっている。めぐみかと思い、
「おい、こんな所で寝たら風邪ひくぞ」
と言って近づいた。するとその人物はのそっと起き上がり、顔を覗かせてくる。
「ん……祐司か」
「……親父か、お帰り」
ソファの前のテーブルにはビールの缶が転がっていて、彼からも少し酒の匂いがする。
「……出張お疲れ」
「ああ」
沈黙。テレビでは通販番組の無意味に元気なナレーションが流れている。
「風呂、入るから」
「ああ」
その場を立ち去るとき、またソファで横になろうとするのそのそという音を祐司は聞いた。
祐司が野球を辞めると言ったとき、淡々と受け入れた母とめぐみに対し、父親は今まで見たことがないほど怒り狂った。
どうしてそんなすぐに逃げるんだ、ゆっくり治せば大学や社会人からでも間に合うかもしれないだろ。
彼は必死で祐司に掴みかかり叫んだ。
祐司は最初こそ無言だったが、彼ができるだけ自分のケガした右腕を避けるように触れていることに気付き、ついに思いが爆発した。
――重たいんだよ。俺はあんたのおもちゃじゃねえ!
それはリハビリ生活中、ずっと抱いてきた思いだった。
自分が野球をやっているのは何のためだ?
自分のためなら、どうしてこんなに治る見込みも不明な辛いリハビリをし続ける?
そもそもなんでプロ野球選手になりたいなんて思ったんだ?
思えば、昔からそうだった。
幼稚園の頃から毎晩のように父親と野球の練習。小学生に入る頃には練習で弱音を吐けば怒られるようになっていた。試合で打ち込まれれば納得いくまで投げ込みをさせられ、雨で練習がなければバッティングセンターに連れていかれた。
それでも結果を出せるうちは良かった。野球をやる上で自分にとって最高の環境だと思っていた。
祐司がそんなことを一気にまくし立てていると、もうやめて、と母親とめぐみが間に入り二人を無理矢理引き離した。
父親はしばらく失望したような目でこちらを睨んでいたが、やがて踵を返すと母親と共に自分の部屋に向かった。めぐみにバカ、バカと言われながら、祐司はうなだれてソファに座り込んだ。
全てが終わったのを理解して、その日から彼はしばらくは激しい虚脱感に襲われていた。
湯船の中で、祐司はふと気付いた。
もしかすると、あの子も過去に何か――。
よし、と祐司はあることを決意して立ち上がった。
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