薄曇りの空
全て話し終えると、祐司は大きく息をつく。
ごちゃごちゃに絡まっていた頭の中は、何も解決していないけれど、少しだけ風通しが良くなった気がした。
「あの、もう野球部に戻ることはない、のですか?」
「たぶん、もうないな」
祐司はそう言って空を見上げる。薄い雲が出ているようで、昇り始めた太陽はおぼろげな光をこぼしている。蚊柱が見えて、少し、ねとっとした雨の匂いも流れてきている。
「ええと、ではなぜランニングを……あ、答えにくいことなら」
「大した理由じゃないよ。ただの日課。毎朝走らないと落ち着かないくらいに体に染みついているみたいで」
いや、違う。今の祐司にはもうわかっていた。
「……ほんとは、結局野球にしがみついてるからで、惰性でリハビリに行き続けたりしてる自分が嫌なだけなのかな」
そんな現実を直視するのを潜在的に拒み、ただ延々と、息を切らせて逃げ続けようとしていただけなのかもしれない。
祐司は苛立ち紛れに下唇を浅く噛み、つい顔をしかめてしまう。
左手の甲が握られる。彼女はなぜか半分泣きそうになっていた。
「三鷹さん?」
「いいんです、辛いときは逃げたって。誰から何を言われたって、何をされたって」
徐々に彼女の目線が下がり、スケッチブックの黄色い表紙の上で止まる。その目は、いつか鏡越しに見た自分の目と同じ濁り方をしていた。
不審に思い呼びかけると、彼女は我に返ってこちらに顔を向ける。
「ごめんね、こんな話をしちゃって。大丈夫?」
「はい、大丈夫です。……謝らないでください。いつも高崎君には色々と親切にしてもらっていますし」
彼女の手の力が緩まる。その柔らかさと小ささに、彼の中で微笑ましい気持ちが湧いてくる。
「俺こそ。手、ありがとね。おかげで最後まで話す勇気が出たよ」
彼女は慌てて手を引く。
「ご、ごめんなさい! よく考えれば、私ったら男の人の手をずっと」
彼女は自分の右手を何度もグーパーと動かし始める。その様子を見ていると、なんだか気分が軽くなっていった。
「いいって。本当に助かったんだからさ。それより男として見られてなかったっていうのはちょっと心外かな」
「いえ、そういう訳ではないです! ってそれは変な意味ではなく、その」
少し拗ねたように言ってみると、あまりに予想通りの反応が帰ってきて噴き出してしまう。
「冗談だよ、冗談」
「もう、変なこと言わないでくださいよ」
彼女が頬を膨れさせるのと同時に、背中に光を感じる。振り返ると雲の切れ間から一瞬だけ朝日が顔を覗かせていた。まつ毛に残った涙の跡が、少しずつ乾いていく。
「もうこんな時間か。時間取らせちゃってごめんね。送った方がいい?」
「いえ、ここからならすぐなので。ランニングの続き、頑張ってください」
立ち上がって深々とおじぎをすると、彼女は斜面を上りその先へと消えていった。
ランニングを再開してから残り数キロの間、祐司はずっと考え事をしていた。
あの濁った目とスケッチブック。春貴の言っていた「同じ匂い」。
息を切らして見上げた空は、再び薄曇りに戻っていた。
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