Section 2. 才能なんて、無ければ

俺は、俺は……!



 まただ。祐司は舌打ちをする。


 この一週間だけで、あの夢はもう三回目だ。

 週三なんて良い夢でも辟易しそうなものだが、それが悪夢なのだからシャレにならない。いつも全く同じ場面から始まり、全く同じ場面で目を覚ます。いつ見てもボールは指示通り投げ込まれないし、何度見てもバッターは空振りしてくれない。


 目覚まし時計を見ると、舞と初めて出会った日と同じ四時半を示していた。

 自分が逃げ帰ったあの夜から数日経つが、あれ以来彼女とは一言も話せていない。お互いに気まずさから避け合っているような状況だった。


 今行けば彼女がいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、祐司は起き上がった。




 四月は進み、桜の木は葉桜になっている。気温も少し上がっているようで、ランニング中の発汗量は日に日に増している。これからの季節はもっと暑くなるのか、と思うとうんざりする。


 相変わらず、この時間帯の河原は人が少なかった。犬と戯れている主婦や、のんびりと和やかに散歩する老夫婦を尻目に祐司は黙々と走り続ける。


 ふと対岸を見ると、遠くにポツンと誰かが座っている。目を凝らして舞だとわかると、よし、今日こそちゃんと謝ろう、と祐司は心を決める。

 ペースを乱さないように、乱さないようにと心の中で唱えながら、視線を前に戻した。


 目線の先には、こちらの方へと走ってくる望の姿があった。


 祐司は生唾を飲み込む。

 この後朝練にでも行くのだろうか、望は下にユニフォームのズボン、上に野球用のアンダーウェアという、祐司の見慣れた格好をしていた。


 お互いの目が合い、祐司は何か言おうと口を開けるが、つい口をつぐんでしまう。

 通り過ぎる瞬間、望は目を閉じて呆れたように言った。


 

 ――何のために走ってんだよ?



 彼の声は、かつてないほど冷淡だった。


 自分の中の何かが切れる音がした。

 まるで体の支えと制御が失われたみたいだ。どんどん走るペースが上がっていく。


 何のためだって? お前に関係あるかよ!

 俺は、俺は……!


 橋を渡り、対岸に入り、斜面の真下まで来ても、舞はこちらには気付いておらずピクリともしない。

 息も切れ切れに見ると、その膝の上にはこの前と同じスケッチブックが置かれていた。


「おーい、三鷹さん」


 祐司が声を張り上げると、彼女はスケッチブックから目を離し、驚いたように見つめてくる。

 祐司は雑草を踏みしめながら斜面を上り、彼女の隣に腰を下ろすと小さく頭を下げた。


「三鷹さん、この前はごめん」


「いえ、私の方こそ何かいけないことを言ってしまったみたいで……本当にごめんなさい」


 彼女は祐司の方を振り向き、目を見開いた。


「ん、どうかしたの」


 彼女はオロオロとしながら言う。


「だ、だって、高崎君、どうして泣いているんですか」


「え?」


 ポタッと水滴が落ち、ジャージ越しに生ぬるい湿り気を感じる。

 汗と一緒に、つーっと涙が顔の上を流れている。


「え、泣いてるの、俺。なんで、ウソだろ」


 精一杯おどけてみるが、目を閉じても上手く笑えずに涙だけが溢れ出る。


 おいおい、男が高校生にもなってなに泣いてんだよ。しかも女の子の前だぞ、ダセエよ、恥ずかしくないのか。

 どう自分に言い聞かせても、体は言うことを聞いてくれない。


 地面に置いた左手に温かみを感じる。

 

 見ると、舞の手がそっと自分の手を覆っていた。彼女は恥ずかしそうに目をそらして言う。


「あ、あの。私よく泣いたりするんですが、そういうときにお姉ちゃんとかに手を握ってもらったりしてたら、収まったりして、あの」


 唖然としていた祐司は、やがて右手を伸ばして彼女の肩をポンと叩いた。


「ありがとう。三鷹さん、優しいね」


 そう言うと、泣きながらも、ようやく微笑むことができた。

 彼女は目を背けたまま頷き、ずっと手だけは離さずにいてくれた。


 数分後、涙が収まり目をこすっていると、彼女は口を開いた。


「その……泣いているのって気付かないものでしょうか」


「うーん、全然気付いてなかったな。いつから泣いてたんだろう」


 口では言いながらわかっている。望とすれ違った後からだ。彼の言葉を聞いてから記憶がぶつ切れになっている。


 今更、と思う。

 何を今更こんなことで泣いてるんだ。野球を捨て、望を冷たくあしらったのは自分からだ。走るのなんて俺の自由じゃねえか。

 それなのに、なんで、なんでなんだよ……。


「あの、もしかして、私のせいでしょうか」


 彼女が恐る恐る、と言った感じで尋ねてきた。


「え、どういうこと?」


「いや、もしかして私がこの前余計なことを言ったから、私の姿を見て思い出してしまって」


 祐司はまた彼女の肩を優しく叩く。


「それは違うよ。三鷹さんとは、まったく関係ない」


 そう告げると、彼女は安堵する。

 自分のため、というより、こちらを思いやってくれている安堵だと理解できた。本当に、優しい子だ。


 ふと、彼女に過去のことを話してみようかと思った。

 あんなこと、思い出すのも辛いけれど、左手に温もりを感じていればそれくらいの勇気は湧いてくるように思えた。


「三鷹さん、まだ時間大丈夫?」


「あ、はい。大丈夫ですけど」


 祐司は、小さく、息を整える。


「今から、昔のことを話したいんだ。良ければ……いや、お願いだから聞いてくれないかな」


 その口調の真剣さを感じ取ってくれたのだろう、彼女はゆっくりと頷いた。



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