どうして、過去は今の邪魔をするのだろう



 暗くなり始めていたこともあり、送るよ、という祐司の申し出に舞は素直に従った。


 薄暮の住宅街では少しずつ家々の明かりが灯り始め、時折開けっ放しの窓から、テレビの賑やかな音や、焼き魚の香ばしい香りが漂ってくる。夜風も、最近少し温かさを含んできている。


「三鷹さん、大丈夫?」


 ずっと俯いて考え事をしていた舞に、祐司が問いかけた。


「はい、大丈夫です」


「春貴のこと?」


「……はい、それもあります」


 舞は、教室での春貴の声を反芻する。自身の辛い過去を語っているとは思わせない、やけに大人びて、淡々としたあの声。

 それを伝えると、祐司は遠くを見るような目になる。


「あいつ、アイドル辞めてからも色々苦労してたからな」


「はい……不良になっちゃったのもきっとそのせいなんですよね」


「でもさ、あいつがそうやってしか気を紛らわせないなら、しょうがないんだよ。今、俺達は普通に友達として支えるだけさ」


 納得させるように祐司は言い、舞は頷いた。それは彼自身を納得させる言葉のような気もして、彼も今まで色々と考えてきたのだな、ということを暗示しているように思えた。


 気付けば、自分のマンションの下の公園に差しかかっていた。


「あ、あそこのマンションです」


「あれなの? すっげ、おしゃれそうなマンション」


「姉がデザイン系の仕事をしていて、こういうのにこだわるんですよ。内装もオシャレですよ」


 確かにこうして見てみると、さすが姉と言ったところか、周囲のマンションと比べてもオシャレな見た目をしている。

 清潔な白い壁の、リゾートホテルを小規模にしたような外装で、エントランスには南国調の観葉植物が置かれている。


「へえ、お金かかってそうだな」


「姉のデザインは結構人気らしくて。年齢の割には結構稼いでいるみたいです」


 その代わりに男運はないのよねえ、と酔っ払いながら言っていたことは、今は置いておこう。


 ふと、パアンと小気味良い音が聞こえる。

 公園の灯りの下で、小学生くらいの男の子とその父親が和やかにキャッチボールをしていて、微笑ましい気持ちになる。


「高崎君って、野球、好きですか?」


「うん? ああ、好きだけど、どうして?」


「いえ、実は私も野球を見るのが好きで。父親が野球好きなんです」


 祐司はへえ、と呟く。舞は再び行き交うボールを見つめる。

 暗い中で、灯りに照らされる白球は、輝く真珠みたいだ。光るボールの軌跡は、真珠を繋げたブレスレットのように見える。繋いでいるきれいな糸は、親子の絆、なのかな。


「でもいいですね、ああいうの。私も姉も運動神経ないから全然キャッチボールなんてできなくて。きっとお父さんはそういうのをしてみたかったんだろうな、って」


 再び祐司の方を振り向く。ちょうど彼の顔が街灯に白く照らされていた。


 彼の目は輝きを失い、真っ黒に染まっていた。


 そのブラックホールのような瞳に吸い込まれそうになり、舞の体に鳥肌が立つ。


「……なあ、三鷹さん。もうここからなら一人で大丈夫?」


「は、はい」


 なんとか声を絞り出すと、彼は大きく息をつき、


「悪い、俺ちょっと気分が悪くなってきて……。申し訳ないけど、帰らせてもらう」


 と言うと、バイバイと手を振りながら彼は駆け出していった。







「ただいま」


 玄関のドアを開けると、姉がキッチンから顔を覗かせる。


「おかえりなさい。どうしたの、遅かったね」


「うん、ちょっと友達と話してて」


 ローファーを脱いでいると、姉は嬉しそうに近づいてきて、抱き締められる。


「良かった、友達できたんだね」


「ちょっと、お姉ちゃん。苦しい」


 そう言いながらも、姉の温もりにほっと心が和らぐ。


「だって嬉しいんだもん。ねえ、どんな子?」


「えっと、今日のは男の子で……」


 言葉を遮るように姉はきゃあっと楽しげな声を上げる。


「もう男の子と仲良くなったの? どんな子、どんな子」


「もう、お姉ちゃん……」


 突然台所の方からボコボコと激しい音が聞こえ、勢いよく湯気がこちらの方へと流れてくる。


「あ、お姉ちゃん、鍋の火」


「え、本当だ、大変! 後でゆっくり話聞かせてね」


 と言い置いて、彼女は慌てて台所へと戻った。舞はとぼとぼ歩き、手を洗って自分の部屋に入り、大きな溜め息をつく。


 あんまり、今日のことは思い出したくないのにな。


 姉に今日起こったことを話すと思うと、自然に溜め息が出る。春貴の壮絶な過去、そしてなぜか突然顔色を悪くした祐司。彼の光を失った目。


 ――俺達と同じ匂いを持っていないか。


 あれを言われたときは自分のことで精一杯だったが、わざわざ「俺達」と言い直したということは、あの場にいた高崎君も含むということだろうか。彼もまた、何かしらの過去を持っているのだろうか。

 そしてそれはもしかして、公園での会話の内容と関係するのだろうか。

 ぐるぐると思考が渦巻き、眩暈が起こりそうだ。


 カーペットの上に座ると、目の前の床にスケッチブックが投げ出されていた。


 ひょいと手を伸ばして拾い上げる。薄汚れた表紙には、サインペンで丁寧に自分の名前が書かれている。 手でもてあそんでいると、無意識のうちに、最初のページを開こうとする。


 そのとき、今度は本当に眩暈が起こる。


 くらっとしながら小さく叫び声を上げ、部屋の隅へとスケッチブックを投げつけるが、壁には届かず床にパタッと落ちる。

 両手で顔を抑えながら、全力疾走した後みたいに荒い呼吸を繰り返す。掌に、じわじわと涙を感じる。


 どうして、と声がこぼれる。


 どうして、過去はこんなにも今の邪魔をするのだろう。



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