戻れない場所


「んー、春だねー!」


 美咲が伸びをして、嬉しそうに息を吐く。頭上には春爛漫の澄んだ空が広がっている。同じ中学だった女子が自転車で横を通り過ぎ、久し振り、と声をかけられ、二人は手を振る。


「こうやって一緒に帰るのも久々だね」


「いつ以来? 中三とかかな」


「もう二年以上前か、そう思うとあっという間だね」


 二年。祐司は驚いた。確かに、改めて言われるとその年月の流れの速さにビックリする。


「と・こ・ろ・で」


 急に美咲がニヤニヤして祐司の前に立った。ああ、嫌な予感がする。


「三鷹さんとはどういう繋がりなのー?」


「別に、今朝偶然知り合っただけで」


 つい顔を背けると、美咲はさらに首を伸ばして問い詰めてくる。


「へえ、あんたそういう方面に積極的な男だったっけ? 怪しいよ?」


「ち、違うって。ああもう、一から説明するからさ」


 そう言って河原でのいきさつを話した。


「ふうん、そんなことがあったの。面白い子だね」


 どうやら納得してもらえたようで、内心ホッとする。


「でも、それスケッチブックの中身見なくてよかったね。最悪の出会いになるところだったよ」


「それが実はさ……ちょっとだけ中身、見えちゃったんだよな」


 美咲はえー、と声を上げる。


「ってことは咄嗟にあの子にウソついたってこと? あんた意外とやるのねえ」


「いや、見えたって言っても、何も書いてなかったんだ」


 祐司が慌てて否定すると、美咲は一気につまらなさそうな顔になる。


「もう、そんなギャグになってないギャグはいらないって」


「いや、そういう意味じゃなくて」祐司は神妙な顔をして言った。「ペンが挟まってたページがあって、チラッと見えたんだけど、何も描かれてなかったんだ」


 美咲も意味を理解したようだ。


「何それ。じゃあさ、あの子はずっとスケッチブック開いて何もせず座ってただけってこと?」


「うん、それも結構長いこと。たぶん俺が来るずっと前からいたように思うんだ」


「そっか。でも考えすぎじゃない? ただ単にいい構図が見つからなかっただけとか」


 祐司は納得しかけて、すぐに一つの疑問にぶつかる。


「でも、それじゃあなんで見られたかどうかであんなに慌てたんだろう」


「んー、それは他のページの絵があまりに下手くそで恥ずかしかった、とかさ」


「そう……かな?」


なんとなく説得力に欠ける気もするが、とりたてて理由も思いつかなかった。


「そんな他人の心配もいいけどさ、大丈夫なの」


「何が?」


 質問の意図をわかってはいたが、あえてとぼけてみた。彼女の表情が曇る。


「だから、その……肘のこと」


 祐司はつい目を背けて、道路の反対側の公園を眺める。満開の桜が咲き誇り、小さな子供達とその親が木の下で楽しそうに遊んでいる。


「リハビリは続けてるんでしょ? まだ諦めてなかったらさ、都会の有名なお医者さんとかに見てもらえば、もしかしたら。あ、私のお母さんの知り合いがさ」


「もういいんだよ」


 咄嗟に出たのは、自分でも信じられないくらい達観した声だった。


「何か月やってると思ってんだ。日常生活に支障のないとこまで戻せたんだ。もう、いいだろ」


「だけど!」


 彼女はぐいっと顔を近づけ、しかしゆっくり、悔しそうに引き下がっていった。目が少し潤んでいるように見えた。


「……そうだよね。私が言っていいことじゃなかったな。ごめんなさい」


 いや、お前は何も悪くない。本当はそう言わないといけないのに、祐司は自分の中に根付いた臆病さに負けて黙り込んでしまった。


 先に彼女の家に着き、別れるときまで、二人の間を気まずい空気が包み続けた。




 その晩、祐司は棚に置いていたボールを久々に握ってみた。


 窓に映る自分を睨み付け、足を上げて投球動作に入る。


 腕をゆっくりと後ろから上へ回そうとしたとき、鈍い痛みを感じて、白球は固い音を立てて転がっていった。そのままベッドにうつ伏せに倒れ込む。


 綺麗で躍動感のあるフォーム。

 かつては誰もが口を揃えてそう誉めそやしたのに、それが今やこのザマだ。


「いいワケなんか、ねえだろうが……」


 納得も、整理もできていない。だけど。


 自分は、もうあの場所マウンドには戻れないのだ。

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