始まりの季節
シャワーを浴びた祐司はリビングで少し仮眠をとっていたが、やがて台所からの香ばしい匂いで目を覚ます。
キッチンに立っていた母親がこちらに気付き、声をかけてくる。
「おはよう。仮眠だなんて今日は珍しいのね」
「ああ、ちょっと色々あって」
あくび交じりに返事した。
悪夢、早すぎる起床、そして不思議な女の子。
今日から新学期だというのに、最初からやけに色んな事が起こり過ぎではないだろうか。
盛大なあくびをしながらテーブルにつくと、二階から妹のめぐみが下りてきた。
「あ、お兄ちゃんおはよう。今朝かなり早くなかった?」
「おはよう。すまん、起こしちゃってたのか」
「ううん、安心して。ずっと起きてただけだから」
母親がその言葉を聞き逃さず、
「めぐみ、夜更かしはダメって言ってるでしょ! 携帯取り上げるよ!」
と叱りつけ、めぐみはやる気なさそうに返事する。
この春から祐司と同じ高校に入学する彼女は、先日ついに念願の携帯を手に入れ、それからというものの深夜まで友達とずっとメールをしているらしい。よくそこまで話すことがあるよな、と祐司はいつも妙に感心する。
食事を始めると目の前の空席が目に付く。味噌汁をすすりながら母親に問いかける。
「あれ、親父は」
「お父さんは昨日の晩から出張。聞いてないの?」
めぐみが横から口を挟み、祐司はふうん、と相槌を打つ。
聞いていないも何も、そもそも父親とは最近ほとんど会話がない。
スポーツ用品のメーカーに勤め、大の野球好きの父親とは、かつては二人三脚で本気になって野球に取り組んでいた。それが野球をやめた途端、疎遠になるのだから家族の絆とやらも難しいものだ。
アツアツの出し巻き卵を飲み込んで、めぐみがやれやれと肩をすくめる。
「もう、お兄ちゃんもお父さんも何なの。野球がなくなっただけで、なんでそんなに」
「めぐみ、やめなさい。……行儀が悪いわよ」
母親が取り成すように言った。最後の一言は、ほとんど無理矢理付け足したのに近い形で。
祐司はご飯を口の中にかき込み、「ごちそうさま」と言い残して立ち上がる。めぐみの方を向くと、彼女はピクリと反応する。
「な、なに?」
「めぐみ、あんまりのんびりしてると遅れるぞ」
それだけ言って、祐司は階段を上っていく。
「……言われなくてもわかってるよ」
彼女はその音を聞きながら、バツの悪い表情を浮かべて呟いた。
自分の部屋に入り、制服を取り出そうとして、棚のトロフィーが祐司の視界に入る。
「少年野球○○杯 優勝」
「中学野球××杯 準優勝」
「春季高等学校野球大会 県予選 優勝」
他にも小学生の頃から積み上げていった努力の証、メダルや盾、記念写真。捨てようとも、せめて押入れに片付けようとも何度も思ったが、結局触ることすらできず、未練がましく飾ったままだ。持ち主の心と共に色を無くした部屋で、それらの輝きはひどくアンバランスに映る。
しかしその光沢もまた、徐々に色褪せつつあることを祐司は感じていた。
無意識のうちに右肘を触ろうとして、祐司は慌ててその手を引っ込める。そこで彼は我に返って制服に着替え始めた。
準備を済ませると、玄関にはすでにめぐみが待っていた。彼女は姿を見るなり、
「遅いよ」
と微笑みかけてきた。
入学式の日は寝ていたため、祐司が彼女の制服姿を見るのはこれが初めてだった。
さらっと伸びた長い黒髪に、まだ着慣れていないセーラー服。これから希望に満ち溢れた高校生活が始まる、そんな初々しい印象を与えた。
「ふうん、結構似合ってるじゃねえか」
「ありがと、でも誉めても何も出ないよ。そろそろ行こっか」
家を出ると、穏やかな春の朝が二人を出迎えた。まだまだ涼しさは残っているものの、早朝と比べれば断然温かく、一年で一番過ごしやすい季節に入ったんだな、と感じる。
二人の通う
校舎の入り口で妹と別れ、祐司は三年生の掲示板で自分のクラスを確認する。自分の一組には結構仲の良いメンバーが多く、彼は心の中でガッツポーズを作る。教室に入ると、何人かと、おいっす、と挨拶を交わして席へ向かう。
少しずつ人が揃い始め、やがて三年一組というクラスが形を成す。二つの席を除いて。
そのうち一つは停学中だからということは祐司も知っているが、もう一席。みんなもそれに気付いているのか、教室の中がざわざわしている。後ろの
「噂では転校生だとよ。名簿に知らない名前があったらしいし、職員室で女の子を見たってさ」
「へえ、転校生ねえ」
高三になって転校してくるなんて、珍しいことではないだろうか。
「可愛い子とかだったら嬉しいよな」
祐司がそう言った瞬間、チャイムと共に教室のドアが開き担任が入ってくる。みんなは慌てて姿勢を正し、クラスは急に静まり帰る。
「おはよう。えー、一組の担任で英語科の
岡野は年々腹回りが気になりつつある中年教師だが、鷹揚で指導力が高く生徒からの人望も厚い。担任にも恵まれ、これはいい一年になるかもな、と祐司は期待を抱く。
岡野は一通り挨拶を終えると、
「それじゃあ始業式に行く前に転校生の紹介をします。三鷹さん、入って」
と教室の外に呼びかけた。
ドアが開き、一人の女の子が入ってくる。かなり緊張した面持ちのまま彼女は口を開いた。
「ええと、
丁寧に頭を下げると、教室は歓迎の温かい拍手に包まれる。悟が後ろから声をかけてくる。
「うーん、可愛いは可愛いか。でもちょっと地味目だな。どうだ、祐司」
祐司にはそんな拍手の音も、悟の声も耳に入っていなかった。
え、うそだろ?
セミロングの黒髪、愛嬌のある目、低めの背丈。
見紛うはずもない。そこに立っていたのは、確かに今朝の前方宙返りの女の子だった。
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