ランニングと宙返り
自分の叫び声で、祐司はハッと目を覚ます。
夜明け前の薄暗い部屋で、息も切れ切れに天井を見つめる。チラッと枕元の目覚まし時計を見ると、まだ四時半と随分早い。軽く舌打ちをする。
アラームの予約を切って起き上がると、少し遅めの新聞配達のバイクの音を聞きながら、ランニングウェアに着替え始める。
祐司は音を立てぬように階段を下りて、家を出る。
四月とは言え、この時間帯だとまだ肌にひんやりとした冷たさを感じる。準備体操を済ませて、いつものルートを走り始めた。
中学生のときから欠かさず続けていたこの日課。少しずつ距離を伸ばし続け、今や恐らく毎朝十キロ以上は走っているだろう。それは怪我していたり、雨が降ったりしない限り、基本的にサボることなく続けてきた。
静まり返った住宅街を抜け、商店街に差しかかる。当然のごとくまだシャッターの空いている店はなかったが、パン屋の横を通ると甘く優しい香りが鼻孔をくすぐる。この時間にすでに準備を始めていることに彼は軽く驚き、心の中でご苦労様ですと敬意を払う。
商店街の長いアーケードの先では、国道と川が並走している。この辺りまで来るとさすがに多少は車も走っている。朝の澄んだ空気にエンジン音が混じって、すうっと消えていく。信号を渡り、階段を下りて河原の遊歩道を走る。
普段なら顔見知りのランナーや散歩のご老人がいるのだが、普段よりスタートが早かったから、見知らぬ人ばかりだった。
行き違う度に、おはようございます、とぎこちない挨拶を交わしていると、ふと川の反対側の方から眩い光を感じる。
どうやら、今くらいがちょうど日の出の時間らしい。
川面は昇りたての朝日に煌めき、ビーズのようにキラキラとした光の粒を流している。眠っていた雀はちゅん、ちゅんちゅん、と朝を確かめるように少しずつ鳴き始める。
こういう朝もいいもんだな、と起床してから低かった彼のテンションが少し上向いた。
徐々にいつもの見知った顔が姿を見せ始め、すれ違いざまにおじさんや大学生から、おっ、今日は早いね、など気の置けない声で話しかけられる。その度に、早起きし過ぎちゃいました、と彼はにこやかに返事する。
川の方を眺めていると、対岸の、道路と遊歩道との間の斜面にちょこんと座る人影を見つけた。
遠くて顔こそよく見えないものの、若い女性のようだ。雑草が覆う地面に座り込んだままぼんやりと対岸を眺めている。
見たことない人だな、と彼は思いつつも、いつもの時間にはいないだけかなとそれ以上気に留めることもなく、ちょうど所定の場所に差しかかったところでピッチを上げる。
ペースを上げれば上げるほど呼吸は速まり、その分口から取り込まれた冷たい外気が体に染み渡って気持ちいい。
この快感こそランニングの醍醐味と言っても過言ではなく、またこの瞬間こそが、今の自分の生活にとって一番の至福のときなのかもしれない。
階段を上ると橋の上を渡っていく。横を行く車やバイクにリズムを乱されないように気をつけながら、対岸に差しかかる。
そのとき、突然川を渡る強い風が吹き始めた。わっと短い声を漏らしながら、一瞬ふらついた体をなんとか立て直そうとする。
ふと、彼の視線の先に先ほどの女性が見えた。何か持ち物が飛ばされそうになったのだろうか、彼女は前かがみに立ち上がって、ふらっと足を動かした。その瞬間、彼女の足がもつれ、
祐司は、前にテレビで見た、建物の三階から宙返りで着地する猫を思い出していた。
黄色い朝日に照らされた、見事な前方一回転。
直後、ドサッという音と共に彼女は尻から坂の途中に着地した。そのまま滑り落ちていき、遊歩道の所でようやくストップした。祐司は階段を下りると、すぐにそちらへと駆け寄って、息を切らしながら問いかける。
「大丈夫ですか」
彼女は顔を上げ、呆然と見つめてくる。小さくてくりっとした瞳と日に焼けていない肌、セミロングの黒髪で、予想していたよりも幼い印象を与えた。自分と同年代くらいだろうか?
「ええと、私には何が何だか……」
「あの、ケガとかはないですか」
「ケガ……」と呟き、自分の体をあれこれ確かめると、「どうやら大丈夫みたいです。着地したお尻もそこまで痛くないですし」と祐司の方を向いて言った。
「そうですか、良かった」と祐司は胸をなで下ろす。と、突然笑いが込み上げてきた。
「どうかしましたか?」
彼女は訝しげな顔で言った。祐司は首を横に振りながら、尚もおかしそうに笑う。
「いや、さっきの宙返り、あんまり見事だったもんで。今思い出すとなんだかおかしくて。すみません」
あ、さすがに怒られるかな、と思ったが、幸い相手も照れたように笑っている。
「あはは、私もビックリしました。私体育とか全然ダメなもので、初・前方宙返りがこんな場面だなんて」
二人で笑いながら考えていた。体育、ということは学生だろうか。もしかしたら相手も高校生なのかなと思ったが、あまり初対面の女性に詮索するのも気が引ける。結局尋ねられずにいると、彼女が何やら辺りを見回している。
「どうしました? 何か探し物とか」
祐司が声をかけると、彼女はぎくりと肩を上げ、
「いえ、ちょっと落し物をして。でも大丈夫です」
と慌てたように手を振る。はあ、と祐司は間の抜けた声を出し、何気なく斜面の方を見ると、一冊のスケッチブックが風でパタパタと揺れている。
歩み寄って拾い上げると、使い込まれているのか、黄色い裏表紙は薄汚れていた。
ふと背後から気配を感じ、振り向いた瞬間、手元のスケッチブックをさっと抜き取られる。
唖然としていると、それを抱きかかえたまま彼女は顔を赤くして、怯えた目で睨んでくる。
「こ、これの中身、見ましたか?」
「いや、何も」
事情が呑み込めないまま、祐司は正直に答える。途端に彼女は気まずそうな表情を浮かべ、
「ええと、その、色々とすいませんでした! そしてありがとうございました!」
と叫んで斜面を駆け上っていった。
祐司はその様子をポカンと眺めていたが、我に返ると、なんだったんだ一体、と首を傾げてランニングを再開した。
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