吸血鬼の少女は狼の獣人と出会う(5)


 ハイドは今、家の近くにある小川に来ている。

 遠くから、軽くて小さな不安定な足音が聞こえる。自然の匂いが強い森の中でも、ここ数日で身についた匂いのその大元が家の中で動いていることはよくわかる。


「・・・・・」


 そこに意識を向けながら、上半身の服を脱いで川の水につけて頭の上で絞った。更に服を絞って、水に濡れた身体を拭く。


 突然耳と鼻がピクリと動き、ハイドの手が止まった。しかし、何事もなかったかのように身体を拭くことを再開し、後ろを振り向いてはいけないと自身に言い聞かせた。


「あ!ハイドさん!」


 遠慮がちな、どこか安堵したような声が聞こえる。


 逡巡し、ため息を抑えたハイドが立ち上がって振り向こうとした時、どさっと倒れる音がした。

 パッと振り返ると、ルーシーがうつ伏せに倒れている。


「おい!」


 慌てて駆け寄り抱き起こすと、くたりとルーシーの首が垂れる。穏やかな表情で瞼を閉じているルーシーに意識はない。けれど、微かに胸の辺りが上下しているのを見て、病が発症して眠りについたのだとすぐにわかった。


 ルーシーのこの姿をハイドが目の当たりにするのは、これが二度目だ。


 ルーシーの白い頬にポタポタと水滴が落ちていることに気付き、付着した泥と共に手の甲でぬぐう。散らばった髪を纏め、そっと抱き上げて家に戻った。


 最初の時、ルーシーは食事中に突然眠りについた。なんの前触れもなく、口の中に咀嚼しているものを残したまま、ふっと一瞬で光が消えるように。椅子から落ちて床にぶつかりそうになったところをすんでのところでキャッチし、名前を呼んだり肩を揺すってみたが一向に起きる気配はなかった。この間のように虚ろな目で襲われるかもしれないと警戒したが、そんな様子もなく、ただ静かに眠り続けていた。口の中に残っていたものを指で掻き出し、水を少しずつ飲ませてとりあえず喉を通過させてから寝台に運んだ。

 ゆっくりと目を覚ましたルーシーが寝台の隣にいたハイドを視界に入れた時、一瞬瞠目した後に申し訳なさそうに微笑んだ。


『すみません。またご迷惑をおかけしてしまいました』


 この時、ルーシーは二日間眠ったままだった。確信寄りの疑惑の病気のことも、今回また急に意識を失って眠りに落ちたことでハイドは完全に本当のことだと確信を持った。

 今回は一体何日眠りにつくのだろうか。


 靴を渡すことを忘れていたせいで、裸足のままだったルーシーの足は水気を含んだ土と植物によって汚れている。髪にも土が付いていた。


 ルーシーに譲っているハイドの寝台に彼女をそっと寝かせ、その上にシーツをかける。

 棚の中から適当にシャツを取り出してから、ハイドは寝室を出た。

 一階に下りて浴室に行き、タオルで簡単に自身を拭いた後シャツを着る。別のタオルを水に濡らして、それを持って寝室に戻った。


 太陽が陰っているのか、室内は薄暗い。


 なるべく揺れないよう寝台に腰掛け、足の汚れを拭き取る。場所を移動して両手、髪、顔を拭いて、ハイドは寝台の側に椅子を持ってきて座った。


 すやすやと眠るルーシーを観察しながら、ハイドは今後のことを考える。


 明日、街に出掛けようと考えていたが、止めておいた方がいいかもしれない。1日で目覚めることもあると言っていたが、それでもハイドがいない間に発症してしまったら危険だ。どこでどんな風に発症するかわからないし、その間に万が一にも誰か来たら・・・この森に侵入した誰かがルーシーを見つけたらまず連れ去られるだろう。


 ルーシーが、本当は何者なのかわからない。ハイドは悟られないように警戒しながら、今も彼女と生活を共にしている。


 だからといって、危険な目に合ってほしいとも思っていない。本人にも言ったように、ルーシーが誰であろうとテタルトでは赤子のように無力だ。今は森の中にいることによって匂いは紛れ、例え誰かが来ようともハイドが守ってやれるが、森から出た瞬間から彼女は格好の餌になる。

 人間を毛嫌いしているわけではないが友好的でもない、どちらかというと苦手意識を持っている者がほとんどだ。中には友好的な者もいるが、それと同様に嫌悪している者もいる。


 テタルトという国ができた当初、獣人たちは皆人間を嫌悪していた。それはもう昔のことではあるが、今もまだ根本にある思いとして根強く残っている。

 しかしその思いがどこからくるのか、真実を知る者は今や国の中枢を担う者の中でも一部の者のみ。一介の騎士でありながら国王と交友があるハイドは、知りたくもない真実を知っている。

 人間に対して嫌悪まではいかなくても、ハイドも苦手意識を持っている。


 ルーシーには、特に。


 本来ならさっさとローデンリニアに帰れと言いたいところではあるが、決死の思いをしてまでここまでやって来たのに簡単に追い返すことはできない。だからといって、はいどうぞと見送ることもできない。


 面倒事には関わりたくない。それを避けるために、ハイドはこの森に住んでいるのだから。


 けれど、もしハイドがルーシーを海まで見送るとしたら、それはもう厄介事を自ら引き寄せることと同義だ。

 また、海のある北部に行くほどハイドを知っている者も多くなる。狼の獣人一の戦闘狂とまで名を馳せ、突然騎士団を辞めて姿を消したハイドが数年経った今もなお有名だということは元同僚から聞いている。

 どれほど有名なのか実際にはわからないが、そんなハイドと人間のルーシーが共にいるとなると嫌がおうに目立ってしまうだろう。安全とは程遠い道のりだ。

 それでも彼女一人での旅よりは、まだ安全だろう。


「・・・・・」


 まとまらない考えは、考えれば考えるほどバラバラになっていく。ルーシーといると、森に住み始めてからは常に冷静だったはずの己の思考が鈍くなっていく。


 日が完全に陰り、更に室内は暗くなる。

 ハイドは、じっとルーシーを見つめている。

 静寂が空気を支配し、ゆっくりとした変化にハイドの背筋がぶるっと震えた。


「・・・お月、さま」


 ぼんやりと虚ろな瞳とかち合ったハイドは硬直し、耐えきれず目を逸らした。次の瞬間にはルーシーの穏やかな寝息が聞こえてほっとした。


 満月は、まだ先だ。


 知らず知らずの内に拳を固く握り締めたまま、ハイドはそれからその日は寝室に近寄ることができなかった。




 ハイドは日に何度か寝室に確認しに行っていたが、起きたのか寝ぼけていただけなのかわからない初日からルーシーが起きる気配は無かった。

 食べさせることができないので流動食を作り、無理矢理口を開けて流し込み、嚥下させることを少しずつ何度も繰り返した。それでも限界があり、これでは体力も回復できない。

 このままでは衰弱死してしまうのではないかと不安に思っていた時、ルーシーはやっと目を覚ました。


 彼女が眠りについて、四日経っていた。


 ちょうど寝室にいたハイドは、ルーシーが周囲の気配を確認してから目を開けたことに気付いた。それが警戒心からの行動であり、その行動が表す意味に気づかないほどハイドは愚かではなかった。

 瞼の開く様を見つめていたハイドを真っ先に見つけて申し訳なさそうに微笑むルーシーに、身の内の感情を押し殺すために拳を一度握り締めてから抱き起こすために近づいた。

 寝室に籠るルーシー自身の匂いが濃くなったことを強く感じながら。


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