吸血鬼の少女は狼の獣人と出会う(2)

 

「・・・・・・」


 意識が浮上していく感覚には慣れている。目を開ける前に必ず周囲の気配を確認することがルーシーの日常であり、五年前からの癖だ。


 もし仮にそのまま何も考えずに起きたとして、部屋の中で何かあったとしても寝起きの頭では考えることも動くこともできない。だからルーシーは必ず気配を探り、人の気配がなければそのまま起きて、誰かいると感じたら寝たふりを続けてなるべく状況を察するようにする。ナイフを隠し持つようになったのはいつ頃からだったか。


 ルーシーの意識が浮上した時、今回もいつものように周囲の気配を確認して、近くに人がいないことにとりあえず安堵する。

 森に入ってからまだ出ることができていなかったことを思い出し、きっとどこかで倒れたのだろうと考える。しかし、そうすると背に触れるのはかさかさした落ち葉やじめっとした土の感触のはずで、それにもっと植物の生々しい匂いがするはずだ。柔らかく包み込むようにふかふかでこんなに温かくて気持ちいいはずがない。


「・・・・・?」


 おかしいと、思わず瞼を開けた瞬間に飛び込んできた光景にルーシーが驚いて身体を硬直させるのは無理もなかった。


 木の天井、ほのかに光が射し込む窓を見て静かに起き上がる。それは彼女のいる場所がどこかの建物の中であることを示していて、遂に捕まってしまったのか人さらいにあったのかと心臓が早鐘を打ちながらも状況を把握しようと冷静さを取り戻そうとする。


 他人の気配に敏感なルーシーが確認した通り、部屋の中には誰もいなかった。そして、薬を盛られたような感覚もない。


 肩まで掛けられていた毛布を剥いで、自身の身体に異変がないか確かめる。服はここ最近ずっと着ていたもので、ぼろぼろになっていた靴は脱がされて床に置いてあり、頬や手足の怪我の手当てがされてあった。そして、何の拘束もされていない。


 この部屋はきっと寝室なのだろう。ルーシー1人では随分と大きなベッドで、あと2、3人は余裕で眠れそうだ。


 ルーシーはもう一度安堵しながらも緊張を解くことができず、ここはどこだろうと考えた。

 ・・・喉が渇いた。寝台の隣の台に水差しが置いてあるけれど、何が入れてあるかわからない。


 ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込む。我慢できない衝動を無理矢理抑えつけるように喉に回した手に力を入れる。大丈夫、気のせいだと何度も思いながら。


 ルーシーは恐る恐るベッドから下りて足音を立てないように扉へと向かい、耳を充てて向こう側の部屋の様子を窺う。しかし、物音1つ聞こえないし、誰かいる気配もない。


 もしや、今は留守なのだろうか。


 ルーシーは手当てされた傷を見て、それからベッドの近くに置かれた自身の靴を見た。


 一刻も早く逃げ出すか、この家の主が帰るまで待つか。

 少しの間逡巡したが、答えはやはりすぐに決まった。


 けれど少しばかりのお礼にとベッドを綺麗にしてから、ぼろぼろの靴を持って裸足のまま歩いて、扉をそっと開けて隣の部屋を探る。


「・・・・・」


 やはり誰もいない。


 廊下に出て、慎重に慎重を重ねてルーシーは進んでいく。すぐに階段にたどり着いて、壁際に隠れて下の様子を探った。どうやらここは二階建てで、階段を下りるとすぐにリビングというわけではなさそうだった。足音を立てないようにゆっくりと、けれど足早に階段を下りて出口の扉を見つけて安堵する。


 どうやらこの家の主は留守のようだ。それほど大きくない家で、使用人もいる気配がなかったことから一人暮らしなのかもしれない。扉を開け、外に出ても倒れる前と同じ匂いの森が広がっているから、ここは森の番人の家なのかもしれないとルーシーは思った。


 しかし、ここの森の番人がどんな人物なのかはわからない。これまでの経験から警戒心の方が大きく、親切にされたところで裏で何を考えているかわからない。この世界で、ルーシーの味方など誰一人いないのだから。


 しかし、早く逃げなければと足を動かそうとしたところで、彼女の足から力が抜けた。


 喉の渇きと共に、空腹であることを今さら身体が自覚し始めてしまった。


「・・・おい」

「っ、あ・・・・」


 家の目の前で動けなくなるなんて、と焦ったその時、聞こえた声に驚いて立ち上がろうとしても逆に足から完全に力が抜けきってしまった。身体も心も強張っていて、ルーシーの瞳から知らず知らずのうちに涙が零れる。


「声が出ないのか?」


 付近の見回りから帰って来た男は、扉の前でうずくまって動かない女の子に近付いてさっと抱き上げた。


 微かに呻いた小さな女の子は更に身体を強張らせ、入らない力でささやかすぎる抵抗を見せる。しかし、傍目にもわかるほど屈強で丈夫な身体をした男には全く影響を及ぼしていない。無駄なことを、と呆れつつ、けれど男に恐怖していることはわかるので仕方ないかと思う。


「危害は加えないからまだ休め。六日も眠っていたんだ。水分補給も必要だろうし、腹も減っているだろう」

「・・・・・・・・・・・あなた、だれ?」


 抵抗は止めたものの男の腕の中で尚も俯く女から、か細い、乾いた声が聞こえた。


 男が今まで嗅いだことのない匂いに気付いて警戒しながら森を見回ったのは、六日前の夕暮れ時のことだ。森の中ではもう暗闇になりかけていて、こんな時間に森に入る輩はどんな奴だと苛つきながら慎重に近付いた。途中で人間の女だということには気付いたけれど、ただの人間の女がこの森に入ってくるわけがないし、人間にしては微かな違和感が残る匂いがした。


 より慎重に目的の人物に近づき、動き出す気配がなくなった時に物陰からさっと現れた。その瞬間、うずくまりながらこちらを苦悶の表情で睨み付けていた彼女はふっと気を失った。


 近寄ってみると呼吸は弱く、明らかな栄養不足と睡眠不足で女の身でよくこの森をここまで歩いてきたと感心した。限界は悠に越えていたのだろうと、容易に想像がついた。


 意識を失っている人間の女の子を家に連れて帰り、寝台に休ませ、水を与え、身体を拭いて、見える場所の怪我の手当てだけはした。六日間も意識を戻さなかったことは心配だったが、外見からわかる苦労を思えばこれまでの疲労が溜まっていたのだと納得した。


「俺はハイドだ。ローデンリニアから来たんだろう。訳は聞かないが、一応言っておく。ここはもうテタルトだ」

「・・・・・そう」


 家に入りながらハイドがそう伝えると、腕の中の存在はほっと安堵の息をついて意味のない抵抗を止めた。対抗するように腕に入れていた力をハイドは秘かに抜いた。


 そして、ルーシーは緩慢とした動きで自身を優しい手つきで抱いているハイドを見上げた。


「わ、たし、は・・・・・ルー、シー・・・」


 水面のように揺らめいた青い瞳の中にハイドが映った瞬間に、ルーシーはまた意識を失った。


 ルーシーの顔がちょうどハイドの首のあたりに落ち着いていて収まりがいいのか、弱々しく苦しそうな吐息が首を掠めてくすぐったい。思わず動かしそうになるが起こしてしまうかもしれないと考えて、ハイドは我慢しながら寝室へ向かった。


 起きたら、ちゃんとした飯を食わせてやらないと。


 男の一人暮らしなので、普段は適当にすませているが、ハイドは料理ができない訳ではない。身体が弱っていても食べられるものを作って食べさせようと、木の実なども取りに出掛けた方が良さそうだと考える。


 綺麗に整えられていた寝台に、慎重に体勢を変えながらハイドはルーシーを寝かせた。夢うつつなのか、ルーシーはいつの間にかハイドの裾を掴んでいる。そっとその手を外し、外に忘れているはずのぼろぼろになっているこの子の靴を簡単に直しておこうと、考えたその時だった。


 抵抗する暇もないほど不意に強い力で寝台に引きずりこまれ、気付いた時にはハイドは眠っていたはずのルーシーに組み敷かれていた。ハイドの両手を寝台に縛り付けて馬乗りになっているルーシーの瞳はどこか虚ろで、けれど青い瞳はその中に幻想を夢見てしまいそうなほどに輝いていた。


 不覚にもそれに見惚れてしまったハイドは、薄く口を開いたルーシーがゆっくりと落ちてきて首筋に歯が当てるまで呆然としてしまった。


「いっ・・・・・!!」

「っ・・・・・!」


 ハイドは我に返って、鈍い感覚に顔をしかめながらルーシーを押し返そうと手を力を入れる。しかし、どこにそんな力が残っていたのかと愕然とするほど押さえ付ける力が強く、今度はハイドの抵抗が意味を成さなかった。


 首筋から聞こえてくる何かを啜るような音が耳に響く。血を飲んでいるのだと一瞬遅れて気付いた。身体から大量の血を吸い取られる感覚に悪寒が走り、逃げ出そうと振り上げた脚の変化に気付き、諦めて投げ出す。


 血の匂いが部屋に充満していく間も、弱っていた人間だと思っていた女はハイドの血を一心不乱に啜り続けている。短いようで長いこの時間に無くなった血の量が多く、それなりに鍛えているはずなのに急激な血液不足に身体の力が少しずつ抜けていく。


 この女は何者だ、と血を啜って飲み下す音を聞きながらハイドはぼーっとする頭で考える。


 人間に血を啜るような習慣があっただろうか。それとも人間の女だと思っていたこと自体が間違いだったのだろうか。血の匂いに酔って理性をなくす生き物は知っているが、犬歯で血脈に穴を空け、新鮮な血を摂取するような生き物をハイドは知らない。聞いたことさえない。


 手首を押さえていたルーシーの手が撫でるように移動して、爪が鋭く尖ったハイドの指に絡まった。押さえつけるような力強さではなく、縋るような慈しむような柔らかい力に変わっていき、血を吸いとられる勢いも次第に弱くなっていく。


 けれど、その頃にはハイドにはルーシーを押しのけるような力は残っておらず、女に押し倒されているという非力さを恥じながら荒い息を吐くことしかできなかった。


 ルーシーの左手がハイドの背に回され、右手は尚も指を絡めながらハイドの左手をやわやわと握りしめている。血を啜ることを止めたと思えば、今度は傷を労るように舌で舐め始めた。ハイドは拘束の解かれた右手を動かし、気になっていた真っ白な髪に触れた。


 急激な血液不足による貧血でハイドが意識を手放した時、ルーシーもまたお腹いっぱいに食事をした満足感と気持ち良い血の匂いに酔いしれて折り重なるように再び眠りについた。


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