今年は帰らせてください。
鹿頭和英(ししずかずひで)
ありがとう。また来ます。
夏。
小庭を横切る蒸した風に、四つ下の幼馴染の千智が殊更に大きく唸り声をあげた。
どうやら真昼の陽炎が、すぐそこにまで迫っているらしい。
ただ物憂げにうちわを仰いでいる彼女はそんな光景を前に、然して後ろ手を突いて腰を下ろしていた。
倦むような日差しがその目前にあって。
日の届かぬ縁側に、猫と冷瓶を添えて。
「ねぇ~」
こちら側を振り向く気力すらないのか、しばらくして千智は空に向かっていきなり喋りだす。
「……」
熱風が彼女の頬を摩る。
追従するラムネ瓶を転がしたような音、風鈴。
別に涼しくもなんとも感じない。
「せんぷうきぃ~、ちょうだいよぉ~」
だらだらとした声色。
その口調と来たら、聞くだけでこちらも気怠さを受け取りかねないようだった。
おかげで僕も欠伸をひとつ。
そうして目を当てていると、予想通り倦怠感に負けた彼女はそのままごろんと、両手を広げて横たわってしまった。
ふわりと、汗でぬれた髪が横いっぱいに、畳の上に広がる。
確かに暑そうだ。
ごろごろと体動する度、長いワンピースの乱れに見え隠れしているのは彼女の雪のように白い肌。
そんな彼女を尻目に、だけれど僕は同室の奥にある扇風機の前にいた。
夕方になるまでは特にすることがなく手持ち無沙汰になってしまった僕はこの和室で千智と二人、だらだらと過ごしているのだ。
カチッカチッと壊れた扇風機が僕の前で首を小刻みに震わせる。
僕はあ~っと、その扇風機に声を通そうとして、でもやはり思いとどまった。
「あんたはうちわでいいでしょう?」
すると和室の襖がぴしゃりと開かれた。
部屋中に響く制止音。
そこでは千夏さんが、剣突を食わすようにして声を張り上げていた。
僕は一瞬戦慄したものの、しかしよく見ると彼女の眼睛は千智の方を向いている。
彼女は僕の方こそ一瞥もくべなかったが、代わりに通り際に僕の扇風機の首振り機能を解除して、颯爽と千智の方へ向かった。
(なまじ器用に動けんなぁ)
僕が感心する千夏さんが身に纏った着物は何処かきつそうで、どう考えても小苦しい感じがあった。
しかし彼女は全く意に介せずといった顔で、慣れたようにすっすっと前へ進む。
やがて彼女は千智の横へ行きつくと、ひざ下の着物を折り曲げて腰を下ろした。
無駄のない、嫋やかな所作だった。
「あつ~い」
千夏さんの存在を横に感じると、千智は仰向けで瞑目したまま唸る。
会話にならない会話。
ただし今度は、聞くだけで抱きしめたくなるような甘い口調で、彼女は唸った。
「はいはい、わかりましたから。あとでスイカでも持ってきますよ」
先ほどとは打って変わって、物腰の柔らかそうな口調。
さしもの千夏さんもこれには胸を打たれたらしい。
確かにこれは反則だろう。
「いや、せんぷうきがいいの」
「今日はだめです」
「え〜、なんでぇよ〜」
「今は修ちゃんが来ているんだから譲ってあげないとだめでしょう」
冷涼な柄の着物に、精悍な顔つき。
淑女然。
いつしか僕の中では千夏さんの顔と言ったらこれだろうと一人得心がいっていたが、しかし時は人を変えるというもの、その相貌は暫く見ない間に随分と温厚に垂れ下がるようにも見えた。
「でも、しゅーちゃんはいいって言ってるよ?」
千智はそんな千夏さんの足下でも見たのか、おどけたように口の端をニヤリとひん曲げてそう言った。
――僕はそんなこと、言ってない。
その時、でも代わりに彼女に恫喝を浴びせたのは千夏さんの方だった。
「都合のいいこと言わないの!」
「っ!」
まさに豪勢だった。
凄まれた千智はたまらず小さく震える。
「で、でも……」
「……」
さすがに口八丁な千智でもゼロ距離で受けた有無を言わせぬような睥睨には、言いかけた反論も徐々に尻すぼみになった。
「おいおい、どうしたぁ」
すると代わりに、二階から降りてきたらしい父が、開いた襖からやってきた。
眠たげな目をぐちぐちと擦りながら。
そうしていつも通り、とりなすようにしてそういったのだ。
「ああ、恭平さん、おはようございます。実はこの子がちょっと……」
「あーあーあー、まぁた千夏さん怒らせたんか、千智ちゃん」
どすどすと畳のへりを踏み鳴らしながら、父が縁側の日の光で切り取られた境界まで近寄ってくる。
そして傲然と胡坐をかいて座った。
父は大抵、昼過ぎにならないと起きてこない。
深夜か早朝に家を出る漁師をしているらしいのだが、僕はこの家を出てから終ぞ、父の仕事姿を見ることはなかった。
そしてそれは、今となっては悲しいことであるように思われた。
「千智ちゃん、今度はどないなこと言いはってん?」
彼の視線の先を見ると、すっかりうらぶれてしまった千智。
いつの間にか陽光の中で千夏さんの膝に顔をうずめている。
「……べつにさ、さっきからしゅーちゃんばっかりせんぷうき使ってるからさ、私にもちょーだいって言ってさ、そしたらいいよって……」
――だから僕は別に、そんなことは一言も言っていない。
「いい加減にしなさい!あんたまた修君が言ったとか、勝手に決めつけないの!」
「うぅ……」
まさしく鎧袖一触。
今度は千智もその一声で懲りたようだった。
変わらぬ日常のワンシーン。
父は、はっはっと声高らかに笑う。
「――ねぇ、おじさん」
「お?」
すっかり顔色を整えた千智が父に問う。
「しゅーちゃんってキュウリ好きやったっけ?」
視線は確実に、僕の方に向けられていた。
「? ……あ、ああ、好きやったと思うぞ」
同じく僕の方を一瞥した父は、苦笑を混ぜながらそう言った。
「なんで?そんなに好きそうには見えなかったけど」
「何言ってるの千智。修君はキュウリが大好きで、茄子が嫌いな子だったじゃない」
「? なにそれ」
そんな珍妙な会話。
唐突な問いかけ。
最初から会話などあってないようなもので。
でも僕は最初から、如才ないように笑っているだけだった。
「ごめんくださ~い」
暫くしてそんな声が、家中を駆け巡った。
「まあ! 恭ちゃん大きくなったねぇ」
「ああ、ばあやも元気しとったか」
「どうも~恭平さん、あっ、千夏さんもお久しぶり。元気にしてた?」
「ええ、おかげさまで」
「そうかい。ああ、これ、昨日太平洋でとれた魚」
「あら~、ずいぶんと立派なこと! こんなのもらっちゃっていいの?」
夕方、玄関の方から何やら楽しげな声が聞こえてきた。
どうやらお盆の恒例行事である親戚の集まりは、今年も多分に漏れず、この家で行われるらしい。
なんでも、僕が物心つく前に往生した祖父はとても難儀な人だったらしく、報連相は当たり前、親戚の集まりもまた然りというイデオロギーを標榜していたらしい。
まさに一家の大黒柱だったそうだ。
そのおかげで冠婚葬祭、就職祝い、出産祝い、その他沢山の行事が、祖父が死んだ後もこの家を通して行われている。
同じような挨拶。
同じような顔ぶれ。
今年もまたこの時期がやってきたのかとは、僕の再三にわたる辟易とした寸感である。
和室では、縁側に指す暁もすっかり傾いていた。
じりじりと迫る境界線。
千智もそれから逃げるようにして、今や僕の傍にまで転がり来ていた。
「ねぇ、しゅーちゃん」
「……」
壁の向こうで、大人たちの和気あいあいとしただんらんが聞こえる。
「なすって別に嫌いじゃなかったよね」
「……」
「私ね、思うんだ、なんでお母さんもおじさんも、猫も杓子も、しゅーちゃんになすをやってあげないんだろうって」
彼女はひらいた両手を上にかざし、その指と指を絡める。
縁側の猫は今も気持ちよさそうに寝そべっている。
「そりゃあ、私だってさみしいよ、しゅーちゃんがもう二度と喋られなくなるなんて。でもさ、だからって高校生にもなってさ、みんなからなすを取り上げられてるしゅーちゃんって、子ども扱いされてるみたいでとってもかわいそうだと思うの」
子ども扱いされる高校生。
まだ中学の千智が、そう言った。
――僕も心底、そう思う。
「いつまでもキュウリばっかりじゃ、いやだと思うの」
いって、彼女は敢然と立ちあがり部屋を出ていった。
「よお、修、久しぶりだな!」
「修ちゃん、久しぶりだね。あっちでも元気にしてたかい?」
空の色が赤から紫へとグラデートし始める頃。
いつの間にか大人たちのだんらんの場はここ、和室にまでずれていた。
みんなが当然のように僕に向かって挨拶をする。
まるで僕がここにいることを当たり前のようにみんな思っている。
でもその中の誰一人として、大きくなったね、なんて言ってくれなかった。
――ま、それもそっか……
悄然とする前に、仕方ない仕方ないと自分に言い聞かせる。
身長ばかりはどうにもならない。
日が完全に落ち夜になると、部屋に入りきらないくらいの親戚たちが集まった。
その様相はまさに千客万来。
持ち込まれた手土産と空き瓶で、部屋は埋め尽くされ、家中が明るい笑い声に包まれる。
向こうでは手拍子が起こり、こっちでは早くも酔いつぶれた人の黒山が生まれる。
形骸化したテーブルは、もはや外に放り出され、後にはその下で寝ていたじいさんが叩き起こされていた。
父の酒臭い掛け声とともに踊り始める男衆。
それに見かねて辟易したように眉を震わせる女子衆。
千夏さんの怒声でこぞって和室の襖を外し始めていた。
「今年もたくさん集まってくれてよかったねぇ」
僕の前で、父方の祖母がそう言った。
「みんなあんたの為に来てくれたんだよ」
「……」
「あんたは今、何を思っているんだい? 修」
「……」
祖母はそうかいと最後に一言だけ添えてゆっくりと立つと、今度は一同の方に向かって投げかけた。
「そろそろ潮時じゃないかねぇ」
この家で一番の祖母が皆を手招きする。
それを皮切りに、先ほどまで乱痴気騒ぎを続けていた大人たちも、まるで引き波のように僕の前に静かに集まってきた。
そうしてひとしきり落ち着くと、祖母は手元にあった逆さまの風鈴を静かに鳴らす。
それに合わせて大人たちも柏手を打ち、頭を垂れる。
その後暫く、沈黙が続いた。
「ねぇ、おばあちゃん」
そしてやっと戻ってきた千智が、中学生ながら時宜を慮ったような声音で、静かに祖母に話しかけた。
「これ、あそこにおいてもいい?」
「あんたこれ、どないしたの?」
「自分で作ったの。だって毎年、キュウリしか置いてないでしょ? 私知ってるよ? みんな修ちゃんとお別れしたくないもんね。でも、あれじゃ修ちゃんがかわいそう。修ちゃんだってもう大人だし、それに……」
眦に涙を浮かべる千智を受け、いつの間にか皆も腹を決めたように首肯している。
父や千夏さんも、今にもぐしゃぐしゃになりそうなのを必死にこらえて、だけれど堰を切ったように一度だけ深くうなずく。
「そいじゃあ修君、気いつけて帰んな」
胴元として祖母に背中を押された千智は、僕の精霊棚の三段目、茄子で作った精霊馬を置いた。
――ありがとう。いつかきっと、また来ます。
僕は数年前の往路よりも殊更に時間をかけて、ゆっくりと、その不細工なナスの牛に乗って還っていくことにした。
今年は帰らせてください。 鹿頭和英(ししずかずひで) @Nupepe_87
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