第8話 汗と魔導書
ほのかなランプの灯りが揺らめき獣臭と甘い香りが混じり合う中、床の軋むリズミカルな音と、苦し気な声が響いている
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・も、もう・・・ダメ・・・許して・・・」
グレイスの苦しげな声を聞いてもアーノルドは表情を変えず、機械のような動きを止めようとはしない。
「もう・・・・・・壊れ、壊れちゃう・・・はぁ、はぁ、はぁ・・・あぁっ・・・」
全身を紅潮させ小刻みに痙攣していたグレイスは限界を迎え、体を大きく一度震わせると気を失った。
「この程度で失神するとはな・・・」
アーノルドはスクワットを中断し、グレイスに近付いた。
「グレイス、起きろ!やっちまうぞ!」
「ひいぃっ!」
よほどのトラウマなのか、グレイスは一瞬で意識を取り戻したようだ。
飛び起きてしばらく辺りをキョロキョロと見回すと、自分が意識を失ったことを思い出したようだ。
「はぁ、はぁ、も、もう、驚かさないで下さい!心臓がドキドキしていますよ・・・」
「どれどれ・・・」
「きゃっ!」
アーノルドが胸に手を伸ばすと、グレイスは反射的に胸を手で覆い小さな悲鳴を上げた。
「おい・・・」
「あ、つい・・・」
「本当に女みたいな奴だな・・・」
「はぁはぁ・・・あ、でも、汗臭くなるっていう目的は達成できましたよね!」
「いや、すまん。たぶんダメだ」
「はぁはぁ・・・どうしてですか?」
もともと、今回のトレーニングにはグレイスの体力向上の他に、汗臭くなって襲われにくくするという目的があったのだ。
実際に汗だくになったグレイスはアーノルドの言葉に不思議そうに小首を傾げている。
「百聞は一見に如かずだ。ちょっとタオル借りて来てみな」
「えっ!一人でですか?」
「安心しろ、後ろから付いて行ってやる」
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一方その頃、一階の酒場では皆が椅子に座っていた。
「親父!酒持ってきてくれよ!」
「う、うるせー!お前が取りに来い!」
二人が二階に消えてから暫くして聞こえ始めたリズミカルな軋み音と悲鳴のような声のせいで、誰もが立ち上がれない状態だった。
下手に動いて少しでも擦れれば、死ぬまで笑い話の種にされる生理現象が起きていた事だろう。
その時、階段の軋む音が聞こえ皆の視線が一斉にそちらへ向いた。
「はぁ、はぁ・・・あ、あの、タオルを・・・んくっ・・・貸して頂けませんか?」
そこに現れたのは、汗まみれの紅潮した顔で息を切らせたグレイスだった。
「う、うおおおおおおっ!!!」
全員の理性の糸が切れた。
例え死刑になっても構わない、そう感じさせる目をしていた。
「てめぇらぶっ殺されてぇのかっ!!!」
皆が立ち上がった瞬間、グレイスの前に躍りだしたアーノルドの怒声が響いた。
凄まじい音圧が店内を通り過ぎ、酒瓶は割れ、食器は砕け、扉は吹き飛んだ。
旧文明で存在したスタングレネードという非致死性兵器の音響部分だけを更に強力にしたようなものだ。
おかげで酒場は一瞬で制圧されたのだった。
「親父、借りて行くぜ」
聞こえる筈も無いのだが、アーノルドはそう言うと厨房からいくつかの物を持ち出した。
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「こ、怖かったです・・・一体何が・・・」
「汗のせいだな」
「え?」
「さっきも言ったが、汗臭くなって襲われにくくするって作戦は大失敗だ」
「どうしてですか?」
「お前の汗は妙に甘ったるい匂いがするんだ。しかも、ジャコウや龍涎香なんか目じゃ無い位に男を狂わせるみたいだ」
「そんなぁ・・・」
「ま、悪い事ばかりじゃねぇ。これでしっかり汗を拭き取って、この小瓶に集めろ」
アーノルドはそう言ってグレイスにタオルを渡すと、厨房から借りてきた蓋付きの小瓶を開け漏斗をセットした。
「集めてどうするんですか?」
「売るんだよ。こいつは相当な値段で売れるぞ」
「えぇっ!い、嫌ですっ!」
「馬鹿言うな。一攫千金どころじゃねぇんだ。取り分はお前が9、俺が1でいい」
「でもぉ・・・」
「つべこべ言うな。冒険者になりたいなら、金を稼げる時は貪欲に稼げ。お前の装備も買い替えなきゃならんから金が要るんだ」
「うぅ・・・分かりました」
小瓶一杯分の汗が集まり、グレイスはバケツの水で何度も濯ぎながら汗を完全に拭い取った。
「じゃあ、俺は親父に返してくる。お前はどうする?」
「うっ・・・ちょっと怖いので残っておきます」
先ほどの大勢の獣の眼にすっかり怯えたグレイスは部屋に残る事にした。
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「返しに来たぜ。小瓶は買い取る」
「てめぇ・・・客がみんな帰っちまったじゃねぇか!」
「グレイスを襲おうとしたあいつらが悪いんじゃねぇか。だいたい親父だって襲おうとしてただろ?」
「ぐっ・・・と、とにかく銀貨5枚だ!」
「おいおい、ボッタクリ過ぎだろ?」
「やかましい!値段決めずに持って行ったんだ、言い値が常識だろうが!」
「ま、いいぜ」
「やけに素直じゃねぇか?」
「ところで、一つ提案があるんだが?」
アーノルドはニヤリと笑いながら続けた。
「なんでぇ?」
「このバケツの水なんだが、グレイスが汗を拭いたタオルを濯いだ水だ」
「・・・ゴクリ」
「これから便所に捨てるつもりなんだが、買い取らせてやってもいいぜ」
「い、いくらだ!」
「金貨5枚」
「む、無理だ!」
「そうか・・・」
アーノルドはバケツを持つとトイレへと向かおうとするが、その足に必死の形相をした親父が縋り付く。
「た、頼む。本当に無理なんだ。明日の仕込みの金が無くなっちまう!」
「どうしても買い取りたいなら、言い値が常識だろ?」
「すまん、すまなかった!この通りだっ!」
親父はアーノルドの足を放すと必死の形相で土下座した。
もう後戻りできないところまで症状が進行してしまったのだろう。
「で、いくらなら払えるんだ?」
「金貨1枚・・・い、いや、2枚ならなんとかなる!頼む、頼むから売ってくれ!」
「しょうがねぇ、レンタル代と小瓶代もチャラにしろよ?」
「もちろんだ。じゃ、じゃあ、金貨2枚で売ってくれるのか?」
「他にも出せるもんあんだろ?」
「な、何の事だ・・・」
「しらばっくれるな。ご禁制の品の1つや2つくらいあんだろ?」
「くっ・・・」
旧文明の頃に怪しい酒場では違法薬物や武器などが手に入ったのと同じようなものだ。
仕入れる時は足元を見て安く買い叩き、捌く時にはご禁制という事で暴利を貪るという点も同じだ。
「なぁに、売値で換算してやるから親父にとっても損じゃねぇはずだ」
「今あるのは魔導書のコピー本だけだ」
「種類は?」
「普通と中型だ。大型以上は無ぇ」
「両方付けろ。そうしたら売ってやる」
「わ、分かった。待ってろ」
そう言うと、親父は店の奥に引っ込みガタゴトと音を立て始めた。
ご禁制の品だけあって、凝った隠し場所に仕舞ってあるのだろう。
「これで頼む」
「いいだろう」
アーノルドは金貨2枚と魔導書二冊と引き換えにバケツを親父に引き渡した。
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