第5話 安宿の親父は狂わされた
宿屋の扉が開いた瞬間、全員の視線が扉に向いた。
さりげなく視界の端で捉えるような上品なものでは無く、無遠慮に品定めをするような目で直視していたのだ。
この視線にビビるような冒険者はカモにされる事になる。
だが、今回は相手が悪かった。
最初に目に付いたのはガチムチゴリマッチョの巨体だ。
本能のレベルで危険を感じたが、ここで目を逸らせば自分が他の冒険者のカモにされてしまう。
虚勢を張って視線を隣に向けると誰もが固まった。
これまでの人生で遠目にも一度も出会ったことが無いような美少女が佇んでいたからだ。
そして、その絶世の美少女は儚げに微笑みながら上品に会釈をした。
街角に立つ下級売女にすらタメ口をきかれる彼らにとって、それは余りにも強大な破壊力を秘めていた。
誰もが視線を落とし、項垂れながらチビチビと酒を飲み始めた。
もっとも、グレイスは精一杯の笑顔を作ろうとしたのだが、視線に怯えて儚げに見える程度の笑顔にしかならなかっただけであるが。
「親父、部屋を頼む。二人部屋だ」
「お、おう。い、いや、満室だ。5人部屋なら空いてるぜ」
もちろん嘘だ。
一見の飛び込み客はカモなのだ。
空きが無いと偽って、たまにしか使われない高い部屋を案内してぼったくるのは常識だ。
「いくらだ?」
「5人部屋だからな、本来なら大銅貨50枚だが今なら40枚にまけてやる」
もちろん、ぼったくりではあるが他所に流れない程度には抑えるものだ。
この安宿以外では二人部屋でも大銅貨50枚はする。
イメージ的にはここがドヤ街の簡易宿所で、他が格安ビジネスホテルと思えばいいだろう。
「高ぇよ!二人なんだから20枚にしろ」
「嫌なら他所に行きな」
グレイスは二人のやり取りを心配そうに見ている。
もちろん宿の親父も男だ。
グレイスの美貌から目が離せずに視界の端に入れ続けており、心配そうな表情を見て胸がチクチクどころかズキズキと痛んでいるのだが、商売人としての矜持が辛うじて彼を支えているのだ。
「しょうがねぇ。親父、ちょっとこっちで話そう」
「なんだ?」
二人はグレイスから離れた場所に移動し小声で話し始めた。
「いいか親父、俺たちはそこまで金が無いわけじゃない」
「だったら40枚払いな」
「そう慌てるな。無駄遣いはしたくねぇんだよ。そこでだ、提案がある」
「皿洗いなら間に合ってるぜ?」
「そうじゃねぇ。大銅貨20枚で飯食い放題と布団一組も付けろ」
「ふざけんじゃねぇぞ?」
「落ち着け。その布団で寝るのはあいつだぞ?」
「あ・・・」
「そうだ。あいつが一晩寝た布団が手に入るんだ。それを持ち主のお前がどう使おうと俺の知ったことじゃねぇ。ただし、条件が飲めねぇなら布団は俺が全裸でくるまってから出発する」
「ば、馬鹿な真似はよせ・・・」
「どうする?条件を飲むか?」
「く、食い放題は外してくれ・・・」
「お前は本当に馬鹿だな。食い放題じゃないならあいつは他の店で食うぞ?それが何を意味するのか分からんのか?」
「あ・・・」
親父は陥落した。
商売人として交渉に完敗した口惜しさよりも、これから手に入るものに心躍らせているのが傍目にも分かる。
ちなみに親父の名誉の為に言っておくが、彼は変態では無い。
グレイスの美貌が全てを狂わせているだけだ。
「グレイス、交渉成立だ。大銅貨20枚を払ってくれ」
「はい」
グレイスが親父の手を包み込むようにして大銅貨20枚を手渡すと、親父は一瞬でゆでだこのようになった。
お前は非リア充の男子中学生か?と突っ込みたくなる場面であるが、全てグレイスの美貌が悪いのだ。
「親父、布団はどうした?」
アーノルドがニヤニヤしながら催促すると、親父は我に返った。
「ちょ、ちょっと待ってろ!」
そう言うと親父は店の奥から真新しい布団一式を持って来た。
「ご苦労さん。じゃあ渡してもらおうか」
「いや、これは俺が運ぶ。お前は指一本たりとも触れるな。いや、むしろ近づくな!」
「へいへい。じゃあ頼むわ」
「よろしくお願いします」
「おい、俺は二階に行く。しっかり店番しとけよ!」
親父は手伝いの少年に声を掛けると、布団を抱きしめるようにしながら階段を上がっていった。
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