第二話
お父さんへ
お久しぶりです。突然の手紙を失礼します。
お父さんがいない生活が始まってから、もう三年の時が経ちました。今日、私は中学を卒業しました。四月からは高校生です。
家に帰ると、お母さんが祝ってくれました。そして突然でしたが、お父さんと別れて暮らすことになった理由を教えてくれました。私はお父さんのことを忘れることはありませんでした。今でもお父さんが帰らなかった夜のことを思い出します。
あの頃のお母さんは、私に私立の中学校を受験させようとしていました。友達と離れることが嫌だったのを覚えています。
お父さんは私に行かなくてもいいよ、と言いました。でもその裏では私に気づかせないようにお母さんを説得していたのですね。私はそんなことも知らず、友達と同じ学校に行けるのだと浮かれていました。代わりに失ったのは大事な家族でした。
一緒に暮らすおじいちゃんとおばあちゃんの力も借りて、お母さんは働きながら、私を苦労なく育ててくれました。でも、お母さんの疲労は目に見えていて、私は申し訳ない気持ちをずっと抱えていました。そして、お母さんのために何かしたいと思っていました。
中学一年生の二学期でした。私は中間テストの成績が前回よりもよくなって、それをお母さんに見せると、嬉しそうに笑って、私を褒めてくれました。髪をくしゃくしゃになるまで撫でてくれました。それはまるで、私を褒める時のお父さんのようでした。
私はお母さんに返せるものを思い出しました。それはちゃんと勉強して、進学することでした。
明日、高校入試の合否が発表されます。お母さんへの一つ目の恩返しになればと思います。
今、お父さんは何をしていますか。
お母さんからは住所しか聞いていません。東京に会いに行くことは、まだ子供の私にはできません。
ですが、そんな私もお父さんと過ごしていた頃に比べれば成長したつもりです。幸い、私は幾つか集めていたかわいいレターセットを持っていたので、手紙を書くことにしました。
お父さんさえよければ、返事をくれると嬉しいです。
愛美より
「……愛美」
これまで抑えていた涙の一条が目の端から零れて頬を伝って、手に握っていた便箋に滲んだ。
次の瞬間、私は走り出していた。部屋の鍵も閉めず、財布と手紙を握りしめたまま、サンダルが脱げ落ちそうなのも構わず、文房具屋へ向かっていた。湯上りで薄着だから、冷たい風が肌に鋭く刺さるが、私は溢れる涙とこみ上げる思いで暑いほどだった。三十半ばを迎えた私は酷く体力が低下しているようで、これほど本気で走ったのは何年ぶりだったか。泣きながら息を切らして走る姿は、それは見るに堪えないものだったであろう。
時刻は午後八時、他人の目など気にする必要はなかった。そして、一目散に向かった文房具屋は、当然真っ暗だった。
テーブルに置かれた薄紅色の封筒は破れや濡れ跡でボロボロだった。手紙の端に描かれた花弁は皺で判別ができない。これを見ると、文房具屋に向かって走っていたとき、私の頭に衝動のように溢れていた言葉を思い出す。そして同時に、愛美がこの手紙を見れば、悲しむのではないかと悔いてしまうのだ。
愛美と会ったときに、私は一体何を話せばいいのか。四年余りの空白の時間が私と愛美にどれだけの溝を作ってしまったのか。到底想像もできないほどに、離れてしまった心だが、せめて沈黙だけはしないでおこう、と心に決めてここにやってきた。それからまず一つ、決心して書いてくれた初めての手紙をこんなにしてしまったことを謝るのだ。
私が返事を書いたのはそれから更に一ヶ月が経ってからだった。せっかく可愛らしい便箋を用意してくれたのだから、私もそれに倣って何か探そうと思ったのだ。仕事帰りに書店や文房具屋を回って見つけたのは、薔薇の箔押しがされた便箋だった。私はこの時、彼女が受け取る初めての手紙としてこれ以上にないと思った。薔薇の花を模した箔押しは華やかすぎるほどであるが、繊細な質感が程よい調和をもたらし、私の生硬な筆致も柔らかにしてくれるようだった。結果として、これが彼女に送る最後の手紙になったから、この便箋を選んで正解だったと思う。
なぜ私がこれを最後に手紙を送らなくなったのかということは、彼女の二通目の手紙を見てもらえばわかるだろう。
その秋桜の便箋は夏の終わりに届いた。
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