Dear stranger.
汐屋伊織
第一話
彼女のことは顔も知らない。
手紙とSNS。媒体によって変わる語り口はどれも別人を思わせるものだった。これから会う約束をしている彼女は、果たして私の知る彼女なのだろうか。そのような疑心が生じていた。
私の視線の先、テーブルに置かれた幼子の写真はピントが合っていないのか薄ぼんやりとしているが、今思い描く彼女はこれより不鮮明である。
私には余裕がなかった。とはいえ、カウンター席の奥の壁に掛けられた時計の針が約束の時間を差した時には、その当人が私のもとに現れるのだから気を揉んでいても仕方がない。それでも時計を気にしている理由は、この喫茶のウエイトレスにある。
その女性はとても美しかった。美しい女性を表現する言葉は生憎と多くは持ち合わせていないが、他の職業で例えるならば、女優かモデルかといった具合だ。彼女は客を席に案内して注文を取り、コーヒーや食事を供すると、決まった台詞を言って決まった位置に戻る。その場所がカウンター席の奥の壁に掛けられた時計の前であるから、私は時計と写真とを行き来する間に彼女の立ち姿を見ては、ごく少ない語彙の中から美しいという言葉を思い出している。ついでに私の語彙の引き出しを漁る時間があるのだから、自分で思っているよりも余裕があるのかもしれない。
あまりにも頻りに時計を気にするものだから、何も考えずに決まったことを熟しているあのウェイトレスも、私の行動の意味を察したのか、左右で整った目を皺にして初めて感情を見せた。
それを最後に時計を気にするのはやめることにして、微かに温みを残したコーヒーを啜った。熱が口の中の熱に融けるまで数秒含んだままでいて、ゆっくりと喉を通らせながら強い豆の香りを感じる。香りと共に、私の骨身に至るまでを幸福感が流れ満ちた。
彼女との約束まで三十分の時間がある。
体の熱が冷めきった時、私は幸福感を打ち消すように身震いをした。ずっと一人だったのに、突如として寂しさに襲われた。私は衝動的に、足元の鞄からファイルに挟まれた封筒を取り出すと、手紙の中の世界へ没入するように一心に読みだした。
最初の手紙が届いたのは今から一年も前になる。私が借りていた部屋にはシャワールームがなかったから、近所の銭湯に通っていた。体を十分に温めて帰ると、家を出た時にはなかったものが玄関に落ちていた。今は破れて皺になったこの封筒である。薄らとピンクがかった紙には桜の花が描かれていた。
手紙など受け取ることがないから、誰かからの手紙など想像もしていなかった。裏面にある丸っこい字も若い女の子のようで驚いたが、差出人の名前はよく知っていた。十五年前、私が寝る間も惜しんで考えた娘の名前だった。幼い頃の娘の写真は大事に財布に入れていて、時折、思い出しては彼女の成長を想像したりしている。
数年は会うことも電話越しに話すこともなかった。彼女が私に手紙を書いて送ったということは、事実であっても信じがたいことだった。だから、この手紙の封を開ける時、私は手が震えて、後に悔いるような切り口を残してしまった。
手紙は「お父さんへ」という言葉から始まった。私はこれを読んだ時点で目の端に涙を滲ませていた。突然に目の前から消えてしまった私をお父さんと呼んでくれること。それは錆びついてしまった幸せの思い出を呼び起こさせたのだ。あの日々はとても大切な記憶となって今も頭に焼き付いている。それは三年の時間を経ても褪せることはなかった。現像したばかりの写真のように、色鮮やかに私を過去へと連れて行ってくれる。
例えばこのコーヒーの香り。ある休日の午後のできごとだ。妻が作ったおやつのパンケーキをみんなで揃って食べているときだった。パンケーキには蜂蜜が塗られていて少し甘かったので、私は一緒にインスタントコーヒーを飲んでいた。
当時、小学校に上がったばかりだった娘の愛美は好奇心に溢れていて、様々なことを知ろうとした。そして、私がよく飲んでいた飲み物にも関心が向いたのだ。
「それちょうだい!」
私が持つマグカップを指して言った。幼き頃の私は苦くて好きではなかったから、まだ挑戦するには早いのではないかと頭を悩ませていると、愛美は「しょうがないなぁ」と言って、自分の牛乳が入ったコップを差し出した。
「これ飲んでいいよ!」
満面の笑みを前に、私の心配は吹き飛んでしまった。マグカップをテーブルの上で滑らせる。それを受け取った彼女は嬉しそうに勢いづけて飲んだ。すると、大きな声で不満を言った。そのひしゃげた顔が愛おしく感じて、私は「まだ早かったね」と頭を撫でて言うと、「騙したな」と小さな手で叩かれたりした。
よくある幸せな日々。それも今では寂しさと共に思い出となって私の中に存在していて、またじわりと涙が滲む。手紙に落としてしまわないように、縒れた袖で拭って、落ち着いたところで文章を読んだ。
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