23 すみれの闘志
確かに父のことは心配なのだ。無理をする父だから。いつか、殉職するのではないかと思っている。しかし、今、すみれはルポライターとしての本能が燃えたぎっていた。尾上和潤の死には何かある。それを突き止めてやる。
すみれは、鏡の前に立った。柔らかで母性的な印象を与える大きな瞳。小ぶりなくせに立体的な唇。色白でありながら健康的な肌。ふんわりと包み込みようなショートカットの茶髪。そこに黒のフェドラハットをかぶる。こうなれば、誰もすみれのことを根来の娘とは思わないだろう。
すみれは、母の仏壇の前に座ると、手を合わせた。そこには母の写真が置かれている。色白の美人だった。美人薄命というもので、母は若い頃に亡くなってしまった。父は一途な男だから、気持ちを切り替えるなんてことはできなかった。ただ何か寂しくなるとこの仏壇の前に座っているのだった。
すみれは、母の記憶はあまりない。すみれが小学校低学年の時に母は亡くなってしまった。悲しかっただろうか。父がいるから大丈夫だと思えたら良かった。でも、やっぱり母のいないことが寂しかったのかもしれない。
中学、高校とすみれの心は複雑になっていった。母がいなかったからだろうか。それもあるかもしれない。でも、いないものはいないのだ、と割り切ることもできた。だけど、父は鬼根来などと呼ばれて、毎日、帰宅も遅く、その人並み外れた元気さから、暴力的な捜査に勤しんでいるというイメージばかりが先行していた。
すみれは、だんだんと父のことが悲しく思えてきた。私のことを忘れて、父は暴力的な捜査に明け暮れているのだ、とすみれは思った。その時間があったら、もっと私のことを考えてほしいという思いを募らせていた。
本当はもっと父と話したかった。一緒にいたかった。でも、すみれはどこかでそれを諦めていた。
根来もまたつらかった。根来はその時、警察という組織の中で、浮いた存在となってしまった自分に苦しんでいた。根来はそれでも、家に帰れば大切な一人娘がいるから大丈夫だ、と思っていた。根来は、娘に甘えていたのかもしれない。根来は、どうにか娘の寂しさを紛らせようと、シュークリームを買って帰宅していた。
ところがその夜、すみれは、
「お父さんなんて嫌いよ。私のことなんて何も考えていないんだから!」
と叫んだ。
……その時が初めてだった。気丈だったはずの父の涙を見たのは。
父が背負っているものを、私は知らなかったのかな、とすみれはふと思う。
なんだか、こうして母の仏壇の前に座っていると、色々なことを思い出す。なんだか、可哀想なことを言ったな、とか、色々な寂しさが代わり番こに込み上げてくる。
父のことが心配か。そうだ。私は父のことが心配なのだ。
だって、父はいつだって無理をしているのだから。
そんな父とまた話をしたい。ゆっくり話をしたい。そんな気持ちにかられた。
……だって、お父さんは、私のかけがえのないお父さんなんだから。
……振り返ってみれば、雪の降る夜も、嵐の夜も、全てが懐かしさとなって、かじかんだ心を暖めてくれるのだった。
すみれは、立ち上がると、誰にも負けない闘志を燃やしながら、玄関を飛び出していった。
すみれは、両毛線の電車に飛び乗り、高崎駅から新幹線で東京駅へ向かった。そして、東京駅から新宿駅へ移動し、デパートで一時間ほど洋服を見た後、そこから特急あずさで甲府へ向かった。
すみれは、揺るぎない闘志に燃えていた。売店で買った飴玉をしゃぶりながら、旅行雑誌のページをめくる。
茶葉の味が濃厚になったミルクティーを飲みながら、予定を練る。
そうだ。粉河さんに電話しよう。
「もしもし、すみれです」
『ああ、すみれさんですか。今、どこですか』
「特急あずさの中です」
『そうですか。あ、そうそう。土井さんにも伝えておきましたよ』
「そりゃ、良かった。なんて言ってました」
『あの根来さんの娘さんとあれば、丁寧にお迎えしないと、後で殺されてしまいますね』
「ははは。ご冗談を」
『冗談と言いますか、わりと真剣な口調でしたけど……そんなことはともかく、危険なことだけはしないでくださいよ』
「大丈夫ですよ。なんて言ったって、私は根来拾三の娘なんですから」
『……だから心配なんですよ』
すみれは、笑って電話を切った。
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