兄妹

 少女には兄がいる。血の繋がりはないが、幼き時分から少女を育ててくれた、義理の兄がいる。

 少女の世界には、兄しかいなかった。群れという集団の中にあって漸く兄以外の存在が世界の中に生まれたほど、兄以外の存在と親しくならなかった。それが何故だったのか、少女にはよく思い出せない。今までも友人はできたはずなのに、何故だか翌日には少女の前から消えている。

 兄にそれについて聞いてみたこともあった。


「イマジナリーフレンドってやつじゃないかな。架空のお友達がいるんだ。トレーネくらいの年齢の子にはよくあることなんだよ。」


 なんだ、普通のことなのかと胸をなで下ろしたのを覚えている。でも、仮にそうだったとして、一日やそこらでそれらは消えてしまうものなのだろうか。




 少女は常識を知らない。人の物を盗んではいけないだとか、人を理由なく叩くのは良くないことだとか、そういった常識はあった。

 なかったのは、兄との関わり方の常識である。兄であるヴォルクスは、少女と二人でいる時によくキスをした。唇を重ね合うそれが本来恋人や夫婦の行うもので、決して兄弟がするようなものでないことを、トレーネは知らなかった。

 指摘したのは、兄と同じ狼の獣人。彼女は話を聞くと怪訝な顔をした。普段人懐こい笑顔ばかり浮かべている彼女にしては、とても珍しい顔だった。


「まゆにもお兄ちゃんとか弟とかいるけど、唇のキスはしないよ。それは、結婚したいって思う人としかしちゃダメなんだよ。」


 結婚。トレーネは疑問を覚えた。自分は兄と結婚したいと思っていただろうか。ただ兄が喜ぶからという理由で応えていたのではないだろうか。




 その日、彼女は初めて兄の行動を拒んだ。兄の表情が凍りつくのを見て、ひどく恐ろしくなった彼女は兄に問われるまま昼間のことを話す。そうして次の日出て行った兄を追い、敬愛している兄に胸倉を掴まれている友人を見つけた。




 少女は兄に逆らえない。二人の間にどうにか押し入り友人である彼女を庇おうとして、兄の冷たい視線に射抜かれた。初めて見る顔だった。もしかして、この顔を見たから今までも友達がいなくなってしまったのかもしれない。

 ……捨てられるかもしれない、と。そう思ったトレーネは先程までの勢いを無くす。


「退いて、トレーネ。」


 聞いたことがないほど無機質な兄の声に震える。トレーネは声が出せない。ただただ首を横に振る。ヴォルクスが深くため息をついた。少女は次の言葉を恐れている。


「兄さんの言うことが聞けないの?」


 少女はついに泣き出してしまった。友人を庇いたいが、兄と友人のどちらを優先するべきなのかがわからない。いつもなら少女をあやしてくれる兄も、今は何も言わずに彼女を押し退ける。

 トレーネはたたらを踏んだが、泣きじゃくっていて何も文句すら浮かばない。


「自分の言うことを聞かないからってそういうことするの、どうかと思う」

「お前が余計なことをしなければこうはならなかっただろうな」

「まゆは間違ったこと言ってない。お前がトレーネちゃんに押し付けなければ良かったんだ。少なくとも今のトレーネちゃんの好きはお前の好きとちが」


 鈍い殴打音にトレーネは短い悲鳴を上げる。友人の頬を兄の拳が打ち付けた。つぅ、と口の端から血が垂れ、彼女は静かに兄を見据える。痛みに泣く様子はなく、怯む様子すらもない。


「図星だから暴力に訴えるの?そうだね、勝った方がいつだって正義だもん。」

「黙れ」

「試してみる?まゆとお前のどっちが正しいか。」


 口を閉じる様子がない少女の首をヴォルクスの手が掴み締めあげようとする。マユは脚を振り上げて蹴りを入れようとし、その足を青年は残った手で掴んだ。首を掴んでいた手を離し、まだ地に着いている脚を払いながら肩を殴打するように少女を押し倒す。

 マユはバランスを崩して強かに後頭部を地面にぶつけた。脳が揺れたのか抵抗が止み、身体から力が抜ける。それを見逃さずに片膝を少女の腹に乗せて押さえ込み、そのまま掴んだままの脚を折ろうと手に力を込めた。


「そこまで。」


 ふっと目の前の少女が消え、ヴォルクスは声の方を見上げる。妙齢の女性が立っていた。片手にマユが抱えられている。金色の飾りが着いたイヤリングが左耳に揺れているのが見えた。


「……まだ終わってない」

「ふぅむ。彼女もキミも降参していないから、確かに決着はついていないな。

ところで、勝った方が正義なんだろう?なら参ったをどちらも言わなかったらどうなるのか……是非とも教えてくれないかい?」


 ヴォルクスの返答はない。やれやれとアンバーは肩を竦めて片手を上げた。マユは漸く落ち着いたのか顔を上げる。気絶していた訳では無いようだ。

 続きをしようとでも思っているのか、無言でアンバーの腕から逃れようともがいている。しかしアンバーの方が筋力も高いようで抜け出せない。


「これ以上やって怪我でもこさえたらきみ、怒った神父様に完全に治るまでの数週間ずっと監禁されてても文句言えないよ。」


 ぴたりとマユの動きが止まった。骨折が治るまでの時間を考え、大人しくアンバーに抱えられたまま脱力する。それを確認するとアンバーは心底面白そうな笑いを浮かべた。


「ふふ、いい子だ。素直な子は嫌いじゃないよ。……さて、ヴォルクスと言ったかな。」


 何故名前を知っている?と言いたげな視線に答えず、アンバーはにっこりと笑ってみせる。目は相変わらず笑っていない。


「まずは妹とよく話し合うことだ。さもなければ私が貰ってしまうからね。」


 ヴォルクスが殺気立つのがそんなに面白かったのか、アンバーはにまにまとした笑いを浮かべて首を傾げた。


「強い方が正義なんだろう?なら私がきみたちに何をしようが正しいということになる。きみは私が彼女を連れて行っても文句が言えないということさ。ははは。」


 ヴォルクスの投げた石が女に向かって飛んでいく。しかしそれが届く前に彼女は空間転移で姿を消した。

 辺りが静かになる。ヴォルクスはトレーネを振り向いた。トレーネはぐずぐずとまだ泣いていたが、先程よりは落ち着いている。


「……。」


 ヴォルクスが目を逸らそうとした。トレーネはぎゅ、とその手を握る。


「……なあに。」

「……帰りたいです」

「そう。じゃあ帰ろうか。」


 それきりヴォルクスは黙り込んだ。トレーネはこっくり首を縦に振り、鼻をすする。ヴォルクスは懐紙を取り出すとトレーネに渡し、トレーネはそれを受け取って鼻をかんだ。

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