謹慎
「まゆも行きたかったなあ」
ぷくぅと頬を膨らませながらテーブルに突っ伏した。そんな彼女は見える部分だけでもかなりぼろぼろで、肌は包帯やガーゼまみれになっている。未だぶつくさ文句を言っているマユに、ミイエレがからからと笑い声を上げた。マユはむうう、と不満そうな顔でミイエレをじろりと睨めつける。それにひらりと手を振りながら彼は蜂蜜酒を一口飲み込んだ。
「しばらく無茶は禁止だそうだよ」
「遊びに行くだけでどー無茶するっていうんですか!」
ブーイングを続けるマユに、やれやれとミイエレはため息をつく。
「ちょっと怪我が痛んでも楽しいからって帰らない、なんてことをしそうだと思われているのさ」
マユは無言で首をすくめ、目を逸らした。どうやら自分でもそうしてしまうだろうという気持ちがあるらしい。本当に狼というよりは犬のようである。それにしても、彼女の家族はこの状態の彼女を見て何も言わなかったのだろうか……?
「……こうなったらおうちに帰るフリして行きます!」
「あはは。私の前で言う?それ」
「ミイエレさんなら黙っててくれそうですもん」
ミイエレはすっと彼女の後ろにコップを向けた。つられてマユも後ろを向く。イオキベが腕組みをして立っていた。マユは振り向いた状態のままぴたりと固まった。長い沈黙の後、マユはゆっくりミイエレを見て助けを求めたが、彼はあーあ、と肩を竦めてコップの中身を飲むだけで何も言わない。
「胡桃坂さん。」
「……。」
「こっちを見なさい。」
マユは椅子を動かし立ち上がる。それからイオキベに向き直ると、叱られた犬のような顔でちらりと見上げた。
「そんな顔しても駄目ですよ。」
「……だめ?」
「駄目です。さあ、怪我が治るまではお部屋にいましょうね。」
マユはそれを聞くと目に見えてしょんぼりする。これ以上抵抗してもいいことはないと判断したのか、彼女は抱っこをねだるように両手を広げた。それを見るとさも当然のようにイオキベは彼女を抱き抱える。そのまま歩いていくイオキベの背を困ったような顔で眺めつつ、ミイエレは生ぬるくなった蜂蜜酒を飲み干した。
「すみません、ミイエレさん。まともな応対もできず……胡桃坂さんの面倒まで。」
「あっはっは、気にしないでいいよ。」
マユを寝かしつけてきたイオキベは、戻ってくるなりそう言って軽く頭を下げた。まるで保護者みたいだね、と笑ってミイエレはひらひらと手を振り、それから首を傾げる。
「暫くここにとどまらせるつもりかい?」
「そのつもりです。彼女の家族は少し放任がすぎるといいますか……」
「それには同意するよ。でも少し……過干渉ではないかな。」
イオキベはじっとミイエレを見た。ミイエレは静かに自分を見つめている。何かを言おうとするが、声は喉に引っかかって出てこない。イオキベは黙ったまま彼の羊に似た瞳から目を逸らす。自覚はない。彼の感情は、彼がまだ人間であった頃に比べて風化している。
「……そんなつもりは、ありませんでした」
「そう。なら言うが、最近のきみは少し度を越しているよ。いくらなんでも、家族でない男女の距離感として、あれはおかしい。きみたちは近すぎる。」
刺さるような視線を感じ、イオキベは居心地が悪くなって椅子に座り直した。自分が今とても動揺しているような感覚がして、イオキベは混乱する。動揺する理由などどこにもないはずだ。
そもそも、何故ミイエレは自分の行動に苦言を呈しているのだろう?いいや、わかっている。自分と彼女の距離が近すぎる自覚はあった。でも、きっと彼女は離れることを望んでいないはず。だってあんなに自分を愛しているのだから。……では、自分は?
イオキベは混乱したままそれ以上考えるべきではないと思考を無理やり中断し、ミイエレの言葉の続きを待った。久しぶりに感じた強い感情の動きに戸惑い、彼は正常な判断ができなくなっている。そのせいで一言も言葉を口にできない。
しかしミイエレはそれに気づかなかった。
「いいかい、彼女のためにも、少し距離を置くべきだ。……何も会うなとは言わないさ。ただ、共寝もさっきの移動の仕方もやめた方が良い。過保護に慣れ切ってしまうと離れられなくなる。依存させる前に……突き放した方が良いよ。あんまりきみにべったりだと、友人や伴侶にも逃げられてしまうしね。」
本当はマユが依存するよりもイオキベが依存する方が問題なのだが、ミイエレはあえて少女のためだと言った。こう言えば、いつまでも優しさを捨てられない彼はきっと少女から離れることを心がけてくれるだろう。自分のためではなく他の誰でもない彼女のためなのだから。
ミイエレは恋愛感情を知らない。だが、目の前の青年があの獣人の少女に惹かれつつあるのは理解ができていた。理解はできていたが、目の前の芽が花開く前にどう摘めばいいかまではわからなかった。
ミイエレは人の感情を理解しきれていない。人であった頃からそうだった。だから、目の前の彼が混乱しきっていて、正常な状態でないことも把握が遅れていた。
「伴侶」
それまで黙って話を聞いていたイオキベがぽつりと反芻する。ミイエレは首を傾げた。ぴしりとコップにヒビが入り、咄嗟に手を離す。その判断は正しく、ヒビは止まることを知らないまま机との接地面まで伸び、そしてコップは中身をこぼしながらいくつかの破片に分かれた。
「くるみざかさんが……?ほかのだれかと?わたし、いがいと、」
「……待って、例えばの話だよ。落ち着いてくれ、」
コップの破片が弾け飛び、ミイエレは咄嗟に腕で自分の頭を庇う。椅子に突き刺さった破片を一瞥した後、イオキベを落ち着かせようと視線を向けた。彼は頭痛を堪えるように頭を両手で抱えている。じわり、と墨を垂らしたように黄土の髪が少しずつ黒く染まっているのが見えた。
「ぼく以外のだれかを、えらぶ、なんて。ぼくのくるみざかさんはそんなこと、」
「そうだね、すまない、その通りだ。彼女はきみ以外愛すわけがない。」
「……そう、ですよね。くるみざかさんは、だって、同衾まで、ゆるしてくれました。死ぬまで僕に縛られてくれることを、選んだのですもの……。」
しまった、とミイエレは眉を寄せる。触れない方がよかったかもしれないと、迂闊に話を切り出してしまった自分を恨んだ。イオキベは俯いていて、表情が読み取れない。ただよりにもよって一番まずい気づかせ方をしてしまったということだけはミイエレにも理解ができていた。
きぃ、と扉が開いた。
「せんせい」
今一番来てほしくない存在が来たことにミイエレは身体をこわばらせる。マユはドアから顔を覗かせていた。寝ていたにしてもおかしな無表情にミイエレは疑問を覚える。イオキベがゆっくり顔を向けた。
「……胡桃坂さん?……ああ、そうですよね、一緒に寝ましょうか。私がいないと、まゆさんは寝付けないんですものね。」
マユは首を傾げ、イオキベが席を立とうとするのを止めて近づいていく。ミイエレは不安になりながらそれを見つめていたが、マユはイオキベのことを抱きしめて頭を撫で始めた。ぎゅぅ、とその背に青年の腕が回る。ちらりと見えた彼の表情は心底幸せそうだった。
「あのねせんせい。まゆ一人でも平気だよ。」
テーブルからみしりと嫌な音がする。
「せんせいも、まゆがいなくて平気だから。それは全部勘違いなの。まゆのことが好きなわけでもないの。
……ちょっと疲れてるだけだよ。目が覚めたら今の全部忘れてるからね、大丈夫だから。」
少女はそう誰かに言い聞かせるように囁いて、何かの魔術を使用した。かくんと青年の頭が落ち、全身から力が抜ける。ミイエレは数度まばたきをしてマユを見た。彼女は近くの長椅子に眠っているイオキベを横たえる。いてて、と小さく声を出しているのを聞いてからミイエレは口を開いた。
「……きみにとってあれは都合がいいんじゃないの?」
ミイエレの言葉にマユは振り向き、耳を伏せる。それからうーん、といつもの笑顔を浮かべた。
「まゆが幸せになることより、せんせいが泣かないことのほうが大事ですから。」
「……そう。難しいね、恋愛感情は。まさか、そのためだけにその魔法覚えたの?」
「うん。使ったことあるから効果のほどもわかってます。」
マユは舌を出した。ミイエレは片眉を上げて首をすくめる。自分やイオキベに対してはただでさえ効き目が薄いだろうに、よくもまあ。……一体何を以前に忘れさせたのかが心底気になるが、触れないことにした。
「ああ、それとね、ミイエレさん」
声をかけられてミイエレは再びマユに意識を戻す。紫色の瞳がミイエレを見ていた。彼女は小首をかしげて笑っている。牙が見えるほどに口角が上がっていた。……笑顔というより、威嚇のように見える。
「二度とせんせいに変なこと言わないでね。せんせいにつらい想いさせる人は全員許さないから。……あとせんせいと私の関係にも二度と口挟まないで。」
「……わかったよ。」
降参するように彼は両手を挙げた。マユはそれを確認するといつもの人懐こい笑顔を浮かべる。そして「まゆはせんせいをベッドまで運ぶから、コップとかどうにかしてください」と言われ、ミイエレは仕方ないと椅子から腰を持ち上げた。
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