雨の日

 ぽつ、ぽつ、ぽつ。雨粒が地面を叩く音にふっと意識が戻る。手元にあった本を机に置き、大きく伸びをした。時間を忘れるほど読書に夢中になってしまっていたために、身体が凝り固まっている。ふうと脱力と共に息を吐き、時計を見て読書の後にやろうと思っていた事務仕事に一度手を伸ばした。……。五百旗頭は席を立ち、部屋を出た。二階は司祭館だが、今は彼以外出払っていて人の気配がない。一階に降りる。聖堂内には誰も見当たらない。

 外が何故だか妙に気になる。雨が降っているのだから、誰かがいたとしてもきっと聖堂内に入っているはずで、今こうして誰もいないのだから気にすべきことなど何もないはずなのだ。だが、神父は何故だか部屋に戻れない。こうすることが正しいのだと確信を持ったまま聖堂の扉を開く。暖かな空気が外へ漏れ出し、冷たい外気に触れて五百旗頭は身震いをひとつした。

 雨はいつの間にか強くなっている。教会の前には誰もいない……ように見えた。

 五百旗頭は目を瞬かせた。目の前に、青いたてがみの狼がいる。燃えるような紫の瞳と目があった。遠くに響く雷鳴も、周囲の雨音も、その全てが瞳を見つめている間他人事のように聞こえなくなる。まるで魅了されたかのようにただそれを見つめていると、狼はゆっくり動き出した。狼は口に何かを咥えていて、雨に打たれながらこちらへ歩いてくる。やがて五百旗頭の前までやってくると、その口に咥えていたものを五百旗頭の腕へ押し付けた。

 神父は数秒呆然と狼を見つめ、それから腕の中を見る。狼が運んでいたのは獣人の子供だった。かすかな呼吸音が聞こえるが、身体は冷え切っていて衰弱している。それを確認してからはっと五百旗頭は我に返り、慌てて聖堂の中へ運んだ。タオルや毛布を持ってきて必死に子供を暖める。その様を、聖堂の扉の前に座り込みながら狼が見つめていた。

 そうして子供の体温が正常に戻り、呼吸がしっかりし始めると、五百旗頭は漸く息をつく。子供の首や手足に着いていた鉄枷は既に奇跡を行使して破壊した。だが、それらのおかげで大体何があったかは想像がつく。悪名高いかの国のことを苦々しく思い出し、それから彼は改めて狼を見た。

 狼は聖堂の中へ入ってこない。


「……どうぞ」


 五百旗頭は片手を差し出して狼を呼ぶが、狼は動かない。今も雨に打たれているのだから、きっと寒いだろうに。そう思いながら五百旗頭は目を下に向け、その美しい青の毛並みが血に濡れていることに気がつき、続いてそのしっかりとした前脚に枷が着いているのにも気がついた。

 神父は無言のまま立ち上がり、まだ比較的水を吸っていないタオルを持って狼に近づく。すると狼は立ち上がり、後ろに下がりながら尾を足の間に挟み唸り声をあげた。しかし逃げ出す体力はないのか或いは子供を置いていけないと思っているのか、踵を返す様子はない。

 紫の瞳を見つめながら、「大丈夫ですよ」と努めて優しく声をかけながら、五百旗頭は狼に近づいた。唸り声が徐々に途切れ、やがて荒い呼吸音が響く。

 神父が狼を落ち着かせようと腕を伸ばすとその姿が歪み、一人の少女へと姿を変えた。咄嗟に受け止めるもそれが裸体であることに気づき、慌ててタオルで包むようにして抱き抱える。少女はあの美しい紫色をまぶたの下に隠して、気絶してしまっていた。ずたずたに裂けた背中の皮膚から血が滲んでいるのを見て、五百旗頭は眉を寄せる。彼は深く息を吸い、少女の手当を始めた。




 くぐもった誰かの話し声で目を覚ます。少女はぼんやりとした頭で誰かの会話を聞いた。


「お帰りください。」


 静かな低い青年の声が聞こえる。青年が扉側にいるようで、会話相手の男の声はくぐもっていて何を言っているかまでは判別できない。ただ、その会話相手が誰であるかを少女は理解した。怒りと少しの恐怖で背中に残った鞭の痕が痛む。


「あなたたち奴隷商に引き渡せるようなものなど何もありません。

ここは教会です。白辰のように人身売買を行えるような場所ではありません。

ご理解いただけたのなら、あなたたちの背後に見えている出入り口からどうぞお帰りください。」


 先程よりもずっとトーンの低い声で青年はそう言った。相手が怒鳴るのが聞こえる。続いて聞こえてきたのは何かが破裂する音。しんと場が静まり返る。沈黙を破ったのはまた青年の声だった。


「……お帰りください。これ以上その話を続けるのならば、私にも考えがあります。」


 暫くの硬直。やがて聞こえてきたのは数人が立ち去る足音だった。一連の様子を聞いていて、はっと気がついた少女は慌てて身体を起こし、弟を探す。少し離れた寝台に寝かされている弟を見て安堵し、遅れてやってくるじりりとした痛みに呻いた。

 ドアが開く音に少女は固まり、ゆっくりと振り向く。扉を中途半端に開いたまま、青年が少女をじっと見つめていた。彼は少しの間そうしていたが、やがて優しげに微笑んで部屋に入ってくる。


「こんにちは。……私は五百旗頭と言います。この教会で神父をやらせていただいています。……自分の名前はわかりますか?」

「……胡桃坂です」

「胡桃坂さん。……。……親御さんがどこにいるかはわかります?」


 胡桃坂はこっくりと頷いた。それなら少しの間休ませて家まで送ってやろうと五百旗頭は考える。少女はじっと五百旗頭のことを見つめていて、それに考え事をやめた五百旗頭が気がつく。


「どうしましたか?」


 少女はへにゃりと笑って神父の手を両手で握りしめた。なんだろうと思いながらそれに笑い返す。


「まゆと結婚してください」

「んん???」


 突然の求婚に五百旗頭が戸惑うのをよそに、胡桃坂は赤らんだ頬をそのままにえへえへと笑った。何が何だか五百旗頭には全く理解ができないが、ともかく胡桃坂は五百旗頭に一目惚れをしている。


「あのね、まゆ、いおきべせんせいに一目惚れしちゃったんです!だから、まゆと結婚してほしいなーって」

「ははは……、色々と問題がありますね。駄目です。」


 がーん、とショックを受ける胡桃坂に空笑いをしながら、五百旗頭は「まだ寝ていた方が良さそうですね」と言いベッドに横たえて寝かしつける。何やらまだ喋りたがっている様子だった胡桃坂だが、まだ体力が回復しきっていないようですぐに寝息を立て始めた。

 少女の寝顔を神父は眺めている。本当ならば、これから同僚に話をしたり仕事をしたりと色々やらねばならないことがあるのだが、どうにも少女から離れがたい何かを感じて席を立てないでいた。一体どうしたことだろうと自分にため息を付きながら、彼は彼女の手を握り、指を絡める。ぼうっと熱に浮かされたような思考回路の中で、ただ少女がまた自分を見てくれたことを嬉しく思った。




 胡桃坂姉弟を送り届け、再会に喜ぶ家族を見届ける。帰らねばならない。帰らねばならないとわかってはいるが、少女が一向に自分の手を離さない。最終的に少女の親が許可したため、眞悠はまた教会にいる。

 そして、今は何故か同じベッドで横になっていた。何が何だか全くわからなかったが、少女があんまり満足そうな寝顔を見せているのでわからないままでもいい気がしてくる。

 長く生きた彼には、この感情が何なのかまだわからない。ただ、頭のどこかで彼女と自分は出会うべくして出会ったのだという確信があった。そしてきっと、と彼は目を細める。彼女が既に自分から離れがたいと思っているように、自分もまた彼女から離れられないのだ。

 今ならまだ間に合うとわかっている。今手を離しさえすれば、ちゃんと互いのことを忘れられる。

 ……少女を抱きしめ、五百旗頭は目を閉じた。目の前で気持ちよさそうに寝ている胡桃坂の生涯を、自分に縛り付けることを彼は無意識のうちに選ぶ。選んでしまう。

 彼女があまりに暖かく、眩しかったから、仕方がなかったのだ。

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