慈愛

血が流れ出て、身体が冷えていく感覚を味わう。手先がこわばり、うまく声も出ない。ざあざあとノイズのような音が鼓膜を叩く中、ただ視界だけが妙にクリアだった。

周囲に人の影はなく、鬱蒼とした森の木の陰にあっては、草木の陰に倒れ込んでいる彼、五百旗頭を見つけることのできる存在などいないだろう。


涙が伝う。怖いのか、それとも悔しいのか。ともかく彼はまだ生きたいと願った。

地面の近くを彷徨う視線に、人の靴が映り込む。


「まだ生きたい?」


幼い少女の声が尋ねてくる。辺りは不自然に静まり返っていた。沈黙する五百旗頭の脳裏に浮かぶのは自らの信仰する唯一神……神王。何故だか目の前の少女がかの神であるという確信が彼にはあった。


少女の姿をしているのは慈悲深き無垢の神、光輝の王だ。

命を司るかの神であれば、彼にもう一度生きるだけの命を与えてくれるだろう。


「まだ生きたい?」


少女はもう一度尋ねた。

それは罪人に齎された一筋の蜘蛛糸のように、彼に縋る機会を与える。彼はゆっくり首を縦に振った。


神王の化身は、にっこりと微笑んだ。そして躊躇わずに自らの身体の一部をちぎりとる。それは星屑のような形へ変わり、少女の白魚のような指が男の口元に触れ、それを含ませた。

味などとうに分からない。男はただそれを飲み込んだ。


ふっと意識を失い、やがて目が覚めた時、彼は自らを覗き込んでいる人々を視認する。慌ただしくなる部屋の中で、彼は自らの心臓が確かに動いているのを感じた。


その後、以前の生活に戻り生きていく中で、様々な違和感を彼は感じて過ごしている。魔力を使用するものは殆どが使えなくなっていて、しかしそれは代償だったのだと諦めもついた。


問題は、時が止まったかのように変わらない自らの身体だ。

周りの知り合いや友人が年を取り、老けていく中で、彼だけはあの時から何も変わらない。

目の前の棺に百合の花を入れる手が震えていた。


思い出すのは数日前、棺の中で安らかに目を閉じている老いた同僚との会話の最中の、ある一言。


「お前、本当に老けないなぁ。俺はもうこんな爺になってるのに。」


笑っている同僚に対して、うまく笑い返せたか、五百旗頭はわからなかった。身体の芯から冷えていくような感覚がある。不老不死という単語が脳裏をよぎった。


「そんなに、変わりませんか。あなたから見ても?」


俯く五百旗頭に対して何を思ったか、その同僚はまた口を開く。


「お前が森で倒れてたのを助けた日から、何も変わってないよ。」


まああの頃より髪は伸びてるけどな、羨ましいなんて、場を和ませようとしたらしい軽口を、五百旗頭は曖昧な笑みで聞いていた。


葬儀場からどう歩いてきたかを上手く思い出せないまま、彼は教会の中にいる。月の光に照らされたステンドグラスの中で、光輝の王が柔らかな微笑みを湛えていた。


「何故……、何故、ですか」


誰もいない教会の中に、青年の震えた声が響く。その声はどう聞いても若い男の声で、葬儀に参列していた友人たちの声とは似ても似つかない。


「きみは老いと死から無事に逃げられた」


少女の声が背後から響く。五百旗頭は振り向いた。闇の中から金色の瞳がこちらを見ている。ああ、と五百旗頭は内心で理解をした。何故、光輝の王の化身だと信じていたのだろう?

神王の化身であることに違いはない。ただ、光輝の王ではなくその片割れ、冥漠の王であった。

嫌な予感が波のように押し寄せてくる。流れる冷たい汗とは裏腹に、口の中は乾ききっていた。


「人類種にとって、不老不死は喉から手が出るほど欲しいものでしょう?

嬉しいよね、嬉しいよね?お気に入りの君が嬉しいと、私も嬉しい」


少女は無邪気に微笑んでいる。慈悲に満ちてはいるが、それは博愛からくるものではない。自らの気に入った者が事実をどう思っていようが、関係もなかった。

自分が玩具のように扱われている。その事実に五百旗頭は気がつき、狼狽した。独善的な慈悲を受け入れてしまったがために、彼は仲間に当たり前のように訪れる、死という終わりを得ることができなくなってしまった。


「いいえ、」


乾ききった口からどうにか声を吐き出す。心臓の辺りが痛い。どうせ痛むのなら、このまま死んでしまえたらよかったのに。

血を吐くような思いで、目の前の神に言葉を続ける。


「こうなることを知っていたのならば、私は頷きはしませんでした」

「なんで?」


間髪入れずに何故、と問われる。五百旗頭は顔を上げた。純真無垢のはずなのに、光のような黄金色なのに、深く底の見えない井戸を覗き込んでいるような、そのような心地になる瞳と目が合う。


「私は、」

「私は?」

「……不死など、求めてはいませんでした」

「でも、死にたくないって言っていたじゃない。」

「私は……私は、ただ……」

「生きたいと願っていた。だから私はそれに応えた。

友達の死に、感傷的になってるだけでしょう?

そうじゃなかったら、何で不満なの?」


少女は幼子のように、なぜかと理由を問い続けた。ただ幼子と違って、何を言ったところで理解は得られないことを五百旗頭は理解する。

目の前のそれは神であり、ただ彼女にとっての優しさを押し付けてくるだけの、人間ではないなにかだ。何を言おうが彼女は理解をしない。しようとしない。

ついに青年は頭を垂れる。あの時何も聞かず、ただ目の前に差し出された蜘蛛の糸を掴んでしまったのがいけなかったのだ。


これは自分が招いた結果だ。

目の前の神はその心に満ちる慈愛で自らを救っただけで、何も悪くはない。

五百旗頭は両手で顔を覆う。

悪いのは、悪いのは差し出されるままに求めた自分だ。

浅ましい過去の自分の欲が、自らを苦しめているだけのこと。


縋る糸は既になく、救済は未だ齎されない。

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