第26話 ゴミ処理の歴史1 江戸は世界一の環境都市であった!
いざ!江戸へ!
江戸の町は、江戸中から紙クズや金物クズ、生ごみから落ち葉まであらゆる「クズ」が拾い集められ、クズ寄せ場で種類別に分別され、それぞれの専門業者がお金を払って引き取り、再生紙や新しい金物、堆肥になっていました。そのお陰で、江戸の町は、ごみの落ちていないきれいな町でした。外国人は自国と比べて驚嘆したという(下水処理ができる前のヨーロッパはそれはひどいものだったようだ)。
集められた紙クズで作られた再生紙は、「浅草紙」といわれ江戸の名産品でした。紙を漉き返し、再生紙を作る「紙漉町」が浅草寺に近いところにあったことが名前の由来ですが、もとは、浅草寺近くの農家の副業としてはじめられたものでした。
ものを大切に使っていた江戸時代は、「修理」や「再生」の専門の職人がおりました。古い鍋や釜などの穴の修理を行う金属製品修理の「いかけ屋」、割れてしまった陶磁器を修理する瀬戸物の「焼き接ぎ屋」、木製の桶や樽の箍(たが)を修理する「箍屋」、包丁などの刃物を研ぐ「研ぎ屋」など、それぞれの分野のプロが、技を冴えわたらせる町でした。
時代劇を見ていると、長屋に住む浪人侍が傘を貼っている場面をよく目にしますが、竹と紙で出来ていた傘は、当然リサイクルの対象でした。「古骨買い」が買い集めた古い傘を「古傘問屋」が買い、油紙(油を塗って紙に防水加工したもの)を剥がして、新しい油紙に張り替えて「張替傘」として売っていました。なんと、広い面積のままきれいに剥がせた油紙は、天ぷらなどを包む包装紙として売られていたといいますから、そのリサイクル力は逞しいものがあります。
古着屋は現代でもよく見かけますが、江戸庶民にとって古着屋はとても身近な存在でした。手織でしか生産されない布は、とても貴重品でしたので、新調する人はごく一部のお金持ちの人。庶民のほとんどは古着屋で着物を調達していました。その着物が古くなれば、子供用に作り直す、おしめや雑巾にする、ハギレは端切れ屋に売るなどというように再利用されました。一反の布を直線で裁っていく和服は、ほどきなおして作り直すといったことができるリサイクルにはうってつけの着物だったのです。和服の洗い張り(縫いを解いて洗い仕立て直す)や染め直しといった技術は、伝統として現代にも受け継がれています。
江戸初期、人々は、各家庭のごみを近くの川や掘、空き地に捨てていましたが、江戸幕府は1655年(明暦元年)にごみは永代島(えいたいじま)に捨てるように命じました。これに伴って、江戸のごみ処理は、1)収集 2)運搬 3)処分 という流れが出来ました。今も続く、ごみを集め、運び、捨てるという流れは江戸時代からのものだったのです。
ここに書いたもの以外に、
湯屋の木拾 …燃料集め。古樽買い屋 …空き樽を集めて問屋に卸す。古ほうき買い …古棕欄を下取りし「たわし」などを作る。ろうそくの流れ買い屋 …ロウ涙を集めて再生品を作る。灰買い屋 …肥料や釉薬など灰の用途は多様。などがあった。取っけえべえ屋 …子供相手に飴などと古釘などを交換する==これは私ら子供の頃、馬蹄磁石を引きずって、鍛冶屋に売って飴玉を買った記憶がある。戦後の物資不足の時代だった。
ちょとものを粗末にし、過剰なゴミを作っていないだろうか、江戸時代の精神を見習おう「もったいない」!
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