第25話 いらないもの,なんでしょう?
昭和戦後をモノで綴って来た。独断と偏見、個人の感想を交えながら・・でも、これらのモノは私たちの生活を便利にし、豊かにしてきたものばかりである。また、私が子供の時代は、銀行はそろばんを使っていた。これだけでいかに、技術革新の時代だったかがわかる。
63年の出来事の最初、1月3日には、「原子力発電に不安を抱く人、過去最高の88%(総理府調査)」と記録にある。前年にチェリノブイリで原発事故を受けてである。今日の事態を予知したのだろうか、危機感は持ったがやはり、他国の出来事としてすぐに忘れさられたのだろうか?
長年その莫大な無駄遣いが指摘されていた『もんじゅ』の廃炉が決定した。再生核燃料サイクルの破たんを隠し切れなくなったのだ。最終処分場を持たず、核のゴミは貯まり続ける。次、同じような事故が起きれば、日本は世界から信用されないであろうことは明白である。技術や製品の問題ではないのである。
戦後日本経済の発展はどこにあったのだろうか、いろいろあげられるが、国の価値観が変わったことであると私は思う。人の生き方に、哲学が大事であるとするなら、国の生き方にも哲学が大事と云える。「平和に生きる」国民はそれを願ったし、それは国是にもなった。その象徴として昭和20年には玉音放送の「真空管のラジヲ」を取り上げた。
モノと人の間には物語がある。「もう一つの物語が紡げたものを」と後世に思う出来事があるとしたら、私はあの東北大震災と福島原発事故だと思う。私は敗戦のとき、息はしていたが、記憶はない。国難と云える事態は(神戸の大震災も経験したが)あれが私が目にした最大のもので、唯一のものである。核に一番敏感であらねばならない日本で、核による被害が起きた。そして、故郷を帰れない人々を作った。
幼子を連れて関西の実家に帰って(疎開と云う言葉を久しぶりに聞いた)来た女の人を何人も知っている。また、居酒屋では見知らぬ同士が原発について議論している光景をみたし、私もその輪の中に入った。みな意見は違っても真剣であった。
人は間違いを犯す動物である。しかし、一度起きた間違いを2度と起こさないことが、賢明な人間のすることである。原発については、いろんな意見があるが、私は新しい価値観で進めるいいチャンスを逃したと思っている。国難といえる困難に向かうとき、何より国民の理解と協力である。「廃止!」10年かかろうが、20年かかろうが、必ずする!それが可能なタイミングはあった。
失われた20年が30年、さかんに経済の停滞、てこ入れが叫ばれているが、大きなイノベーションの機会を逃しておいて、何を?というのが私の今の気持ちである。
*やっと完結。なんだか、思わぬ結論になってしまった。見出しだけでもみて下さい。けっこう面白い。
64年
01/04 東京証券市場の大発会は平均株価が3万0243円66銭。バブルの最後である。
01/07 天皇崩御、皇太子が新天皇に即位。
01/07 閣議、新元号を「平成」と決定し、公布。そして長い昭和は終った。
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