第22話 昭和58年・六甲のおいしい水

ハウス食品により発売。日本国内での家庭用ミネラルウォーターのさきがけ的存在である。私は六甲裏の田舎から昭和30年に大阪に越して来た。まず、あの活性炭の匂いの水道水に参った。

外国旅行に人々が行けるようになって、ミネラルウオーターなる飲み水が売られていることは知られるようになった。しかしそれは、硬水、軟水の問題でしかなかった。国内では、水道、井戸水ともそのまま飲めて、水はタダという感覚であった。


しかし、江戸や大坂では飲み水は売られていたのである。大坂では、大川上流で汲み上げ、船で売りに来た。これを水船と云い、明治20年ごろまで続いたという。

水の価値を何より大事にしたのが醸造業、特に酒造りである。秀吉の頃は、伏見の酒が京で売られた(まだ、江戸はなかった)。江戸になって、伏見より伊丹、池田の酒が台頭し、江戸に運ばれるようになった。西からの酒を「下り酒」として江戸っ子に重宝された。中期になると、酒どころは灘に代った。これは宮水と呼ばれた六甲の水であった。


神戸に『にしむら珈琲』という店がある。戦後、人々が食べる物にさえ事欠いた時代、この水に目をつけ、宮水で沸かした珈琲として売り出した。女主人であった。ハイカラ好き、珈琲好きの神戸っ子に受けた。珈琲を飲む人なら、神戸でここの名前を知らない人はない。


神戸市街と裏六甲を結ぶ道は、有馬街道1本であった。モータリゼイションで渋滞するようになり、六甲をトンネルでぶち抜いた道(最初は有料だった)を作った。その道を運転していると、横車道に何台も車が止まるようになった。バイクの人もいる。「こんなとこで止めて危ないやないか!」と思った。喫茶店主や珈琲好きの人たちが湧水を汲みに来ているのである。噂になって、多くの人が来るようになって、柵が作られ吸水は禁止された。

ああー、あのときに、下手な服屋なんぞやっていず、水ビジネスに手を出していれば今頃は大金持ちになっていたかも知れないのだ。


ハウス食品が販売していた『六甲のおいしい水』は工場が神戸市西区に移転したこともあり、表示が不当であると公正取引委員会から排除命令が出された。そんなこともあって、ハウス食品は水事業を、アサヒ飲料に譲渡した。現在は同社より『アサヒおいしい水 六甲』として販売されている。

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