第11話 昭和33年、スバル360
昭和33年に忘れてならないものがもう一つあった。お隣の武君の家が車を買ったのである。お隣は商店街で唯一お店をやっていない。元々ここらの地主さんであった。地主さんにしてはえらい小さい車だと母は笑ったが、運転するのは娘さん(武君のお母さん)である。横にお母さんを載せて、後ろに武君を載せて日曜日ともなると、買い物だのドライブだの。隣のおじさんは関取なみで、席が取れないのである。いつも置いてけぼりであった。前が大人二人、後ろは子供二人がやっとで、それでも4人も乗って走れるのだろうかいう大きさだった。
スバル360は、富士重工業が開発した軽自動車である。富士重工業の前身は旧・中島飛行機で、その技術力を結集して開発したのである。前輪駆動(FF)方式を採用して広い車室空間?を確保すると共に、1967年時点での軽乗用車としては突出した高出力のエンジンを搭載した。先立つ昭和30年通商産業省が「国民車構想」を打ち出した。国民車と云えば『フォルクスワーゲン』、この言葉はドイツ語で国民車・大衆車の意であった。初めて知った。この考えはヒトラーの国民車計画から始まったのである。
1958年から、12年間に渡り、生産されたのは39万台程度であったが、庶民にはマイカーが近いと思えたのだ。ワーゲン・タイプ1のあだ名となっていた「かぶと虫」との対比から、「てんとう虫」の通称で呼ばれた。販売1号車の顧客が松下幸之助であったことは有名な逸話である。まだ時代はつつましかったのである。発売価格365000円は、当時の大卒の初任給が14000円程度、初任給2年分と結構したのである。
その後、1967年に本田が桁外れに高性能で低価格なホンダ・N360を発売し、軽自動車市場の首位をホンダに譲らざるを得なかった。そのホンダもアメリカで起きた「欠陥車問題」が飛び火し、「N360」に操縦安定性の面で重大な欠陥があるとした訴訟問題が起きた。その影響は避けられず、軽乗用車の分野から一時撤退に追い込まれた。エンジンを空冷から水冷に切り替え、1972年ハッチバックスタイルの小型車『シビック』で再参入し、今日の世界の『ホンダ』を成し遂げたのである。スズキ、ダイハツと軽自動車メーカーの先駆けとなり、トヨタ・カローラ 、日産・サニーが登場し、自動車大国日本を作り上げたのである。スバルは本当に「スバルらしかった」のである。
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