第9話 昭和32年・ミゼット

映画『三丁目の夕日』の主役は建ちゆく東京タワーと、鈴木オートの軽三輪車だったかも知れない。その軽三輪車はダイハツ工業から発売されたミゼットである。ダイハツ(大阪発動機)の社歴は古い。1907年に大阪高等工業学校(大阪大学工学部の前身)の研究者を中心に創立された。戦前からオート三輪「ダイハツ号」の製造で自動車業界に参入して、オート三輪業界でマツダとともに市場を二分していた。

軽の三輪車は「既存車両のパーツ流用によるアッセンブリー生産」という形で中小零細企業によって造られていた。ミゼットはそのような安易策は取らず、当初から自社一貫生産による大量生産と、低価格販売を目途として開発された。安全性も高く、小回りも効いて、免許制度や維持費のハードルが低く、月賦購入も選択できるミゼットは、大型の運搬車導入が資金的に苦しかった街の零細事業者たちにも手の届くモノとして歓迎された。


ユニークだったのはその販売戦略であった。その軽便性を売りとする「街のヘリコプター」なる名キャッチフレーズや、スポンサーとなっていたコメディドラマ『やりくりアパート』(1958年 - 1960年)の生CMに、ドラマの主役である大村崑を起用、番組終わりのCM枠では毎回、大村がギャグ混じりで「ミゼット!ミゼット!」と連呼した。これが大当たりとなり、ミゼットは一躍ベストセラーとなった。ダイハツは現在軽自動車メーカーとしてトヨタ傘下にあり、売上高1兆円を超しているである。


このミゼットのネーミングをちゃっかり頂いて成長した企業があった。大和ハウスである。昭和34年『ミゼットハウス』なるものを発売したのである。今でいうプレハブ住宅(工業化住宅)である。建築が「請負」ではなく「商品」になったのである。売り方も営業セールスだけでなく、全国27ヵ所のデパートで展示即売方法を取った。これが話題になった。「ちょっとした庭があればすぐに建って、子供の勉強部屋にも使えます」が売り文句だった。

家が商売をしていて1階がほとんど店に取られ、自分の部屋が欲しかった私は憧れたが、庭もない。裏の家の同級生が大きな家なのに、庭にこれを建て自分の部屋に使っているのを羨ましく2階より見ていた。


「ミゼットハウス」はその後、お客から、「トイレをつけて」「台所も」となって、これらに応えるために、さらに研究を進め、本格的なプレハブ住宅へと進化していった。今や連結売上2兆8千億円の総合住宅デペロッパー企業である。

創業者石橋信夫は奈良県吉野の出身で林業高校を出て、満州の営林署に勤務していた。ロシアの捕虜となり極寒の地で過酷な労働の日々を送った。その中で人間にとって「衣・食・住」がどれだけ大事なものかを痛感し、日本に帰ったら「住」に関わる仕事で起業しようと考えた。ミゼットハウスの発想は、猪名川で鮎釣りをしていた際、日暮れが迫っているのに子供が帰宅しないのを見かけ、早く帰宅するように声を掛けると、子供達は「帰っても勉強部屋も子供部屋も無い」と答えたのがきっかけであったと語っている。


昭和35年頃までは、発想一つで大企業を起こせるチャンスが存在したのだ。チャンスがあるから、誰もが成れるというものではないだが、生まれるのがもうちょっと早かったら・・いかん、戦争に行かねばならならなかったかも知れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る