第6話 昭和25年・ウイスキー『ポケット瓶』

冷戦が朝鮮半島で火を吹いて、国内ではレッドパージが吹き荒れ、警察予備隊(自衛隊の前身)が出来、日本が大きく右旋回した年だ。歌ではブギが流行り、山本富士子がミス日本になり、ナイターが後楽園で始まり、アメリカ大リーグが日米親善で来日した。


ウイスキーの始まりは朝ドラ「マッサン」で皆さん詳しく知られるところである。最初の大得意は海軍であった。サントリーもニッカもこれで救われた。サントリーウイスキーは戦後21年には発売されていた。24年この年、『ポケット瓶』180mlが発売されたのである。スキットル(ステンレスなんかで作られた酒を入れる携帯用の水筒)を真似たものであった。

缶ビールなんてなかった時代、旅のお供ができたのである。日本酒でなかったわけではない2合瓶があった。これを向い同志、時には一人でチビリチビリやるのである。窓際に置かれた瓶のどちらがお洒落かは、方や帽子でも被っていれば英国紳士風、方や鉢巻でもしていれば田舎のオッサン風、勝負は明白であった。私も缶ビールが出来るまではポケット派であった。

当時日本の一般家庭でウイスキーを置いている家なんてなかった。日本酒は燗で飲むのが本筋で、冷や酒、やコップ酒はそれから外れるものであった。冷たい酒の文化がなかったのである。夏場にはビールを飲むようにはなってはいたが・・。このポケット瓶がウイスキーの普及に果たした役割は大きい。


25年ダルマ瓶で一世を風靡した『オールド』が発売された年、東京・池袋に1軒のバーがオープンする。看板には『トリスバー』とあった。オーナーは久間瀬巳之助氏。彼は『トリス』の人気ぶりを見て、世の中が豊かに成長して行けば必ず洋酒の時代がくると予測した。久間瀬はサントリーの鳥居敬三に相談する。ふたりの思いは一致。酒はトリスとカクテルのみ。価格を明示して、とにかく安くて気軽に飲めるバーとした。敬三は協力を惜しまなかった。こうしてトリスバー1号店は誕生した。27年には『トリスーバー』が巷に大流行となる。これはその後『サントリーバー』のなる。私が学生時代に飲んだのは後者の方である。看板、レイアウトや店舗設計、運営ノウハウの援助、今でいうチェーン化のようなものであった。


1958年(昭和33年)イメージキャラクターのアンクルトリスが登場し、「トリスを飲んでハワイに行こう」のコマーシャルが大ヒット。派手な宣伝活動の一方地道な営業活動も行っているのである。高価なオールドは庶民からは憧れの的であったが、高価な輸入ウイスキーの代わりとして贈答用として限られていた。しかし年を追うにつれて、徐々にではあるが浸透していった。夜の歓楽街にあるバー・クラブ・スナックなどの店で人気を集め、ハイボールや水割りという日本流飲み方で馴染まれていった。高度経済成長期には、寿屋(サントリーの旧名)の売り上げの殆どをオールドで占めた時期もあり、サントリーの代表的ブランドとなった。

特に1970年代にかけては、バー、クラブだけでなく、サントリーの東京支社が当時日本橋にあったことや、同社が「日本料理には日本酒」というこれまでの既成概念に挑むべく、料亭や寿司屋、割烹などあらゆる日本料理店への営業を集中的に行ったことで(サントリーはこれを「二本箸作戦」と称している)オールドやリザーブなどのウイスキーが様々な和食専門店へと浸透してゆき、ひいては一般家庭でも飲まれるようになった。冷蔵庫の製氷機が「ロック」で飲めることを可能にしたことも大きいだろう。


私は、夏は冷奴でビール、時に蒲鉾で大吟醸。冬は湯豆腐で熱燗、時にチーズクラッカーでロック。いろいろとお酒を楽しめている。それにしても「つまみが」・・問うてくださるな。妻が作れる手料理なのです。


こうしてサントリーは日本に洋酒文化を定着させたのである。宣伝部にいた開高健、山口瞳は作家に、「アンクルトリス」の産みの親の柳原良平はイラストレイター、エッセイストとして活躍した。

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