第3話 昭和22年・漫画

〈給食開始、アメリカから脱脂粉乳が提供される〉もあったけど、手塚治(19歳)がデビユーしているのだ。描き下ろし単行本『新宝島』を出版。この時代に40万部のベストセラーになった。子供たちは食べ物だけでなく、娯楽にも飢えていたのだ。当時、マンガが4ページ程度だった時代において、200ページを越えるボリュームで、それまでのマンガの「単純」「短い」といった常識を打ち破り、奇想天外な冒険ドラマが描かれたものであった。酒井七馬との共著とされているが、酒井紙芝居画家で原案・構成を受け持ち、実作は手塚がほとんど行っている。コマ運びや物静性重視で戦後現代マンガの原点とされる。赤本マンガ、貸本漫画ブームとなり、水木しげるや白土三平などが育っている。


昭和27年漫画月刊誌『冒険王』に載った柔道漫画の『イガグリくん』は爆発的な人気を博し、『冒険王』は瞬く間に発行部数30万部を売り上げたという。私は発売日には本屋のある隣村まで自転車で走ったものだ。

昭和34年には、『少年マガジン』や『少年サンデー』などの週刊漫画雑誌が登場し、漫画は貸本の裏世界から表の世界に飛び出した。漫画は子供のものではなく、大学生も読み(私も大学近くの喫茶店でよく読んだ。白土の『カムイ伝』、つげ義春のシュールな作風の『ねじ式』が好きだった)。彼らが社会人となり、大人も読むようになった。

『鉄腕アトム』はTVの世界のヒーローになった。1977年、劇場アニメ『宇宙戦艦ヤマト』が8月6日-10月28日の上映期間に270万人を動員し、興行収入21億円という空前のヒットを記録し、立派に興行になることを証明した。その後の漫画、今やアニメの発展はご存じの通りで、日本が誇る文化コンテンツとなった。


授業中にはよく漫画の内職をしたものだ。しかし、「漫画ばっかり読んで」と叱られ、漫画は一格低いものとされていて、漫画家になるなんて考えなかった。小文に添付した漫画をFBで褒めて貰ったことがあった。「今からでも遅くはない」と云われても・・逸材は世間の常識に縛られないのである。

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