Part13 帰宅
疲れた身体を引きずって、俺は家まで歩いた。
小さな公園にピンポイントで落下し、リアライバルと戦った時に匹敵する砂埃を上げたものの、この辺りの人間はもう家に籠っている時間であるから、目立つような事はなかった。
公園と家とは二〇〇メートルと離れていないのだが、俺の足は鉛のように重く、病弱ながら無理に参加させられた、小学校の頃のマラソン大会の、ドンケツでゴールする直前のようだった。
あの時は恥ずかしかった応援が、今は何となく欲しい気もする。ただ、実際にそうなったらやはり恥ずかしいと感じるだろうから、今の状態が良いのだろう。
「お前、いつもそんな事考えてるのか?」
と、ミライが言った。
童女よりも狭い歩幅で歩く俺の横に、向こう側が透けて見えるミライが立っている。
「あんたは……疲れてないの?」
と、訊くと、平然な顔をして頷いた。
「俺には身体がないからなー。痛みも疲れも感じられないんだ」
「羨ましいよ」
「ただ、今のお前みたいにネガティブになる事までない訳じゃないぜ。そういう時、身体があればすっきりさせる事が出来るが、この状態だとそれもままならない」
「身体があれば? ああ、鬱は運動で治るって理論だな」
「それ自体は本当さ。尤も鬱病になったらそれすらもなかなか出来なくなるというのも、多少なりと分かっているつもりだ。それに、鬱って程じゃない心の悩みは、運動していても消えないって事もね」
始終、明るい調子で、ミライは語った。半透明の表情をころころと変えている様子は、どうにも俺と話したくてしょうがないという風に見える。俺は疲れているのだから――その原因はミライにもある――黙って帰宅したいのに。
とは言え、黙って歩いていてもただ疲れるばかり、それならば、話し相手がいた方が多少は気も紛れるかもしれない。
「って言うか……あんたは、一体、誰なんだ? どうして、俺の考えている事が分かるんだよ? これも、何処から出て来たのさ」
俺はクロスピナーを取り出した。ミライの出現と共に、俺の手に現れた不思議なデバイスだ。
公園に落下した俺が拾い上げると、中に装填したメダルはなくなっていた。思い出してみるに、俺をクロスブラッドにしたあの赤と黒の光は、メダルから発生したものであった。つまり、回転によって、メダルを構成していた粒子が噴出してクロスブラッドに再結合し、粒子を使い切ってメダルは消滅した……と、考えて良いのだろうか。
「お前は察しは良くないが、呑み込みは早いみたいだな」
「また、俺の心を読んだような事を言う……」
「だから、説明は後でも良いだろうと思ってね。今は兎に角、家に帰って身体を休める事だ」
ミライはそう言って、俺の肩に手を置いた。勿論、その感覚はない。ミライは彼も言っていたように実体を持っていない、だから俺に触る事が出来ないし、その逆もしかりなのだ。
「せめて、あんたが何者かだけは教えてくれよ。何で身体がないのに、そこにいるんだ? さっき、あんたは俺の身体で、喋ったり動いたりしてたよな。それはどういう事なんだよ」
ミライに問い詰めていると、家の前に到着していた。
丁度、ガレージに車が戻って来る所であった。母さんだ。
俺が玄関の扉をスライドさせると、車から降りて来たスーツ姿の母さんがやって来た。
「サク? どうしたの、今日は遅いんじゃない?」
「ああ、ちょっとね……」
「それに、鞄はどうしたのよ。制服もそんなに汚して……。ひょっとしてあんた、イジメられてるの!?」
母さんは俺の服を、家に上がる前にぱんぱんと叩いて埃を落とした。遠慮のない張り手のような威力に、「痛い痛い」と言うも母さんは手を止めない。それが寧ろイジメのようなものだ。
「そんなんじゃないよ。今日は、色々あったんだ……」
「そんな言い方したら、益々怪しまれるぜぇ」
「うるさいなぁ」
「ま! サク! ママに向かってその言葉遣いは何?」
俺はミライに言ったつもりだったが、母さんはむっと眉を寄せて、俺の顔に手を伸ばした。そして薄っぺらい頬肉を親指の腹と人差し指の側面で掴み、ぐっと引っ張り始める。
「痛たたたた! 暴力反対! 体罰反対! PTAに訴えてやる!」
「残念でした、PTAは体罰賛成派が多数で条例が可決されていまぁす!」
何て事を言うのだ、この人は。
しかし、確かに体罰反対を訴えるのはいつも学校外の人間だ。生徒の
母さんは俺の頬が剥ぎ取られないくらいで手を止めると、小さく息を吐いて言った。
「それで? 本当は何があったの?」
「何でもないッてば。母さんには関係ないよ」
俺は靴を脱いで廊下に上がり、コート掛けに学ランを引っ掛け、さっさと洗面所に向かった。シャツと靴下を脱いで、洗濯籠に放り込む。
「手洗いとうがいは忘れるなよ。ちょっとの油断から風邪を引くからな!」
「言われなくてもやるっての……」
そう言えば、母さん、ミライには何も言っていなかったな。見えていない……って事なんだろうか。
俺はミライに言われるまでもなく、手を石鹸で念入りに洗い、砂と血の味が混じった口の中を、水でゆすいだ。そして制服のズボンをハンガーに掛け、部屋着のシャツとズボンに履き替えると、洗面所を使うのを待っていた母さんと出くわした。
「ご飯は? 何処かで食べて来たの?」
俺が鞄を持っていなかったから、一旦家に帰ってから、外食に出掛けたと考えたのだろうか。母さんはそんな風に訊いた。
夕飯は大抵、独りで食べる。父さんは夜の九時半まで道場にいるし、母さんが帰って来るのは今頃だ。俺が帰宅するのは、今回のような事がなければ遅くとも七時半を過ぎるくらいで、夕飯は勝手に炊飯器からご飯をよそい、作り置きがあればそれを、なければ冷凍食品を温めたりコンビニかスーパーで総菜を買ったりして、おかずにする。
「いや……今日は、要らない。もう寝る……」
腹は減っていたが、その一方で食欲はなかった。それよりもさっさと眠りたい。疲労がべったりと張り付いているのだった。
「そう……。それじゃあ、おにぎり作って置くから、後でお腹減ったら、食べなさいね」
階段に脚を掛けた俺に、母さんが言った。
「うん」
俺は背中越しに手を振って、二階の自室に上がった。
裸足がカーペットの肌触りを感じると、その瞬間に緊張の糸がほぐれたように、俺の全身から力が抜け落ちた。ベッドに倒れ込むと、スプリングが軋んで身体を押し返す。
「シャワーくらい浴びたらどうだ? 頭から砂が落ちて来たぞ」
ミライがそう言ってくれるのだが……俺の意識は、もう限界である。
返事をする余力もなく、俺は眠りに落ちた。
ただその前に……今日の光景を、思い返していた。
あやちゃん……
今朝、いつものように話しながら、学校の途中まで歩いたあやちゃん。
それがどうして、あんな怪物になってしまったのか。
いや、そもそも、あれは本当にあやちゃんだったのか?
リアライバルをクロスブラッドが打ち倒し、消失した怪物の身体があった位置に立っていたあやちゃん。彼女は黒と赤の粒子に包まれて再びリアライバルとなったが、気になったのは彼女の表情だ。
いつも、たおやかに微笑む彼女に、俺は――自分でも気持ち悪い感想だが――宗教画の聖女を感じていた。しかしあの時のあやちゃんは、いつも綺麗に整えられた髪が逆立ってさえいた事に加え、血管を浮かべた眼を向き、唇を耳まで吊り上げ、歯茎まで見せて牙を喰い縛っていた。
あれがあやちゃんなのか?
姿は彼女であったが、それでも俺には、彼女の存在が俺の知っているあやちゃんと乖離しているように、思えてならなかったのだ――
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