Part14 一夜明けて

「サクー? いつまで寝てるの? 遅刻するよー? サク? ねぇ、聞いてるのサク?」


 部屋のドアの外から、母さんの声が聞こえた。


 母さんは俺が時間になってもリビングに降りて来ない日は、先ずは階段の下から声を掛ける。それでも返事をしないでいると二階に上がって来て、部屋のドアを何回かノックする。それでも起きて来ないと分かると、ドアノブをがちゃがちゃとやって、鍵が開いている時は蹴破るような勢いで扉を開け放つ。


 今回は、最後のそれだった。


「サク? ……どうしたの」


 母さんは、ベッドから離れ、床に転がっていた俺を見下ろして、首を傾げた。


「い、いや……何でも、ない」


 俺は上体を起こそうとするのだが、全身が軋むように痛んで、結局、再び寝転がる事になってしまう。


 母さんはその様子を不思議そうに眺め、


「起きてるなら、早く下りて来なさいね」


 と言って、部屋から出て行った。


 俺はどうにかこうにか寝返りを打ちながら、壁際まで転がってゆくと、壁を這い上るようにして立ち上がり、壁に寄り掛かって溜め息を吐いた。


「筋肉痛か? 大変だなぁ」


 と、ミライが言う。


 誰の所為だ、誰の――


 昨日の夜、俺はこのミライに憑りつかれて、普段しないような動きをさせられた。そのダメージが、一晩明けてやって来たようである。


 俺は関節を曲げるだけで千切れそうな痛みに襲われる為、肘と膝を真っ直ぐに伸ばして、ロボットのようにぎこちない動きで、階段を下りた。


 すると、朝のランニングから帰って来てシャワーを終えた父さんと、ばったり出くわした。


「……筋肉痛か」


 ぼそりと、父さんが言った。


「わ、分かるの?」

「職業柄……」


 父さんは空手道場の経営者で、ジムでスポーツインストラクターもやっている。だから、筋肉痛になった人間がどういう歩き方をするのか、分かったのだろう。


「昨日は体育があったのか?」

「そうじゃないけど……色々と、あって」

「そうか。あんまり無理しないようにな」


 俺は小さい頃から病弱で、体育などは見学する事が多かった。前と比べれば多少はマシになったものの、今でも長距離走や水泳、一部の球技などは出来ないでいる。


「それと、悪いな」

「え?」

「おにぎり、喰っちまった」

「……あ、ああ」


 そう言えば昨日、夕飯を食べずにベッドに入ったのだった。母さんがその直前、おにぎりを作って置くから腹が減ったら食べろと言っていた。


 朝までぐっすりと眠ってしまい――正確に言えば目覚めたのはいつもと同じ時間だが、筋肉痛で動けなかった――、その時間を採る事が出来なかったので、父さんが喰ってくれたなら、折角のおにぎりを無駄にせずに済んで良かった。


 リビングに向かう父さんを見送って、俺は洗面所に向かった。流石に昨日のままで、今日も学校に行く事は出来ない。温かいお湯を浴びれば、筋肉痛も少しは和らぐだろう、という適当な考えで、シャワーを浴びる事にした。






 ワイシャツと制服のズボンに着替えて、洗面所から出て来ると、父さんも母さんも既に朝食を終えた後だった。今日は……玉子焼きと、ふろふき大根――これは多分、夕飯のおかずにもなるだろう――、それと同じ大根を使った味噌汁。


「昨日、職場の人に、こぉんな大きい大根貰ったのよぅ」


 母さんは腕を目一杯広げて、釈明した。


 誇張されてはいるのだろうが、職場に、家庭菜園をやっている同僚がいるという話は聞いており、スーパーに出回っているものよりも大きいものが収穫出来たという話は良く聞いた。


 俺は、夕飯を抜いて腹がぺこぺこだった事もあって、食卓に並べられた朝食にがっついた。


 味噌汁で口の中を潤した後添えられた大根おろしに醤油をかけて、箸で切った玉子焼きと一緒に食べる。ふろふき大根は柔らかくなるまで煮られ、調味料もむらなく染み込んでいた。散らされた小葱が味のアクセントになって、フルーツのようなジューシーさだ。


 食事を終える頃には、父さんはもう仕事の準備をしている。母さんも着替えを済ませていた。


 俺は食器を台所に運び、さっと水にくぐらせてから、食洗機に掛けた。


 歯を磨き、自室に荷物を取りに上がろうとしたのだが、昨日は鞄を持って帰って来なかった事を思い出した。


 中学校を出る時は、当然、持っていた筈だ。それから商店街でコロッケとメンチカツを一つずつ買って、それから牡丹坂高校へ向かった。そこで飲み物を一本買って、高校の教師に見付かり――その後、あのリアライバルという怪物に襲われた。


 リアライバル……あやちゃんが変化したと思しき、怪物に。


 多分、リアライバルが昇降口のロッカーを薙ぎ倒し、入り口のガラスを突き破った、あの悪夢のようなファーストコンタクトの瞬間に、鞄を手放してしまったのだろう。


 それから俺は校舎の中に逃げ込んだが、この時にはもう、持っていなかったと思う。


「鞄かぁ。そう言えば、拾ってる暇もなかったな」


 階段に脚を掛けた俺に、ミライが言う。


「さっさと拾ってくれれば良かったのに……」

「ンな事言っても、パトカーとか来てたしさ」

「パトカーか。……若しかして昨日の事、ニュースになってたりするのかな」


 部屋に上がり、鞄にも入っておらず、置き勉もしていなかった教科書の内、必要な分を勉強机の棚から取り、指定のスポーツバッグに入れた。今日は体育があるから、体操服と一緒だ。


「そうなっていたら、お前は重要参考人だな」

「そうだね……」


 昇降口や教室が荒らされ、学生の手でも簡単に壊せるガラスが割れていただけならまだしも、壁が自動車で突っ込んだように破壊されているのだ。死人まで、出ている。現場から俺の足跡を発見する事は簡単だろうし、それより何より、携帯電話や財布まで入れた鞄を置いて来ている。


 下手をしたら、両手が後ろに回る事になる、という訳だ。


 ただ、そうなっているとしたら、幾ら何でもゆっくりし過ぎだろうと思う。昨日、あれからすぐに通報があって警察や消防が駆け付けたのなら、俺の荷物を発見する事は簡単だ。そしてその晩すぐに、俺の家にやって来ても変ではない。


 それがないという事は、俺の存在はスルーされているという事なのだろうか……。


 取り敢えず俺は、学校へ行きすがら、牡丹坂高校の様子を見て置く事にしようと思った。


 玄関まで下りると、父さんはもう母屋に併設された道場へ向かっていた。母さんが、靴を履いている。


 パンプスを履き終えた母さんから、靴ベラを受け取って、スニーカーに脚を入れる。昨日の汚れの落ち切っていない学ランを羽織り、外に出た。


「それじゃ、気を付けてね。遅刻しないように」

「はぁい。行って来ます」


 母さんが車に乗り込んだのを見て、俺は学校へ向かった。


 教会に面した横断歩道までやって来た。……しかし、俺が時間を遅らした事もあって、昨日までのようにあやちゃんが後ろから声を掛けて来る事はなかった。


「ねぇ、ミライ……さん」

「ミライで良いさ。敬語なんか使われると、むず痒くっていけない」


 ミライはやはり、俺の傍に半透明に浮かんでいた。明るい場所でも、その姿はくっきりと見る事が出来る。ただ、父さんにも母さんにもミライの事を見る事は出来ていないようで、俺が朝食を摂っている間、家の中をふらふらと見回っていた彼に気付く事はなかった。


「ん……その服……」


 昨日は奇妙な全身タイツだったのが、今は平凡な開襟シャツとスラックスに変わっている。


「服? まぁ、そんなに気にするな勝手に変わるんだ」

「ふぅん。……じゃあ、ミライ……」


 俺は横断歩道を渡りつつ、彼に訊いた。


「昨日の怪物は、本当にあやちゃんなの? ああ、あやちゃんっていうのは……」


 俺はミライに、簡単に、あやちゃんとのあらましを説明した。


「それは間違いない、君も見たようにね」

「リアライバル……って、それは何なのさ。説明するって言ったよね、リアライバルの事も、あのクロスブラッドとかいう、姿の事も……」


 俺は左胸に手を当てた。学ランの内ポケットに、俺の身体をクロスブラッドにさせたクロスピナーが入っている。


 一晩休んで、後回しにさせた説明を求めた俺だったが、昨晩にせよ今朝にせよ、何かしらの邪魔が入るものらしい。


「君……飛鳥朔耶くんかい?」


 と、声を掛けられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る