第6話
土曜日だというのに、道路を走る車は少なかった。綿毛のような薄い雲がかかった青空は、寂しそうだった。
ルームミラーをちらりと見ると、後部座席の娘の姿が見えた。白いセーターに身を包み、寒そうな様子で流れる景色をぼんやりと見つめている。昨日は普段より早く帰ってきたから、しっかり眠れたのだろう。あるいは彼女なりに気合が入っているのか、眠そうな様子はなかった。
妻の墓は、私たちの家から車で五分くらいの所にある。本当は家の近くにしたかったのだが十分な広さが確保できず、仕方なく近くの霊園に墓を建てた。毎年恒例の墓参りの日に、こんな青空は珍しかった。日差しを浴びている道路や山を眺めていると、雨女だった妻がこの世界から遠のいてしまっているようで、寂しくもあった。
「暖房、入れようか?」
「いい」
車に乗ってから初めて発した問いかけに、娘は最小限のエネルギーで応答する。車内では、FMラジオが控えめな音量で流れ続けているだけだ。家の中だけでなく、車の中でも会話はほとんどない。本当は、妻の分も話を聞いてやりたいのに、なかなか言葉が出てこない。高校生の相手は慣れているはずなのに、娘を前にするとうまく会話できない。こんな二人を見たら、妻は笑うだろうか。父親としても教師としても、失格だ。つくづく情けないなと思いながら、私はただ車を運転することに意識を集中させた。
会話のないまま、私と娘を乗せた車は霊園の駐車場へと入っていく。土曜日の、霊園の広い駐車場に車は二台しかなかった。ガラガラだなあ、と小さくつぶやきながら入口の近くに車をとめる。娘がわざとらしく咳払いをしたのがわかった。
エンジンを止めて車を降りると、冷たい空気に全身の筋肉がきゅっとなるのがわかった。ここに来るときは、いつもそうだ。澄んだ空気は凛としていて冷たく、どこか寂しさを帯びている。人気のない駐車場は、初めて来た日からその表情を変えなかった。無論、変わってほしくない思いがあるのも、また事実だ。
車から降りた娘は寒さをものともせず、そそくさと霊園の入口へと歩いていく。年々寒さが増している気がするのも、もしかしたら年のせいなのかもしれない。私は娘において行かれないよう、素早くトランクからデパートの紙袋を取り出して彼女を追いかけた。
妻が亡くなってからしばらくの間、ここは地獄のような場所だと思っていた。広い駐車場に降り立つたび、霊園の裏の林を抜けてきた冷たい風に吹かれるたび、妻を失ったという絶望が全身を支配するのだ。五年が経ち、今では妻に会いに来るという感覚になってきた。妻がいないことに慣れてきたのか、妻の死を受け入れ始めたのか、私にはわからない。
娘とともに霊園の管理者に軽く挨拶を済ませると、借りた掃除用具を持って白い大理石のタイルが並ぶ質素な通路を進み、妻のもとへと向かった。二人でここに来るのは何度目だろうか。毎年この時期には一度来ているが、卒業や進学の報告にも訪れたことを考えると、相当来ているはずだ。その度に、娘は妻のことをどれだけ覚えているのだろうかと心配になる。小学校六年生の頃だからある程度記憶はあると思うのだが、私自身、小学校時代の記憶があまりないことを考えると忘れてしまっていても不思議ではないと思う。
規則正しく整列した墓石たちの中から妻の墓石を見つけ、ずんずんと歩いていく。私が娘よりも前を歩くものだから、後方から遅れないように娘が小走りするのが聞こえた。
妻の墓石は、周りのものと比べると質素だ。納骨棺を地中に埋め込んでいるため、シンプルな見た目をしている。白い御影石でできた棹石には「大須賀家之墓」と彫刻されている。
なんだかほっとして、顔の筋肉から力が抜けるのがわかった。実際にはお彼岸でも会いに来たのだが、生前は毎日会っていたのだから二か月会わないだけでも長く感じる。
墓全体を囲む外柵の脇に持ち物を置き、二人で墓石の掃除に取り掛かる。周辺に散らばっている落ち葉を拾うだけならまだしも、濡れタオルで墓石全体を拭く作業は修行のようである。歩いて少し温まった体が、指先から冷えていくのがわかった。
絞ったタオルを小さなビニール袋に入れて紙袋の中にしまい込んだ時、水が入った花立を両手に持ったまま娘がこちらに近付いてきた。
「今年、何持ってきたの?」
「たんぽぽだよ、今年も」
「ふうん。好きだね」
そう言って娘は墓石の方へと歩いていく。珍しく話しかけてきたと思ったら、すぐに興味がなさそうな素振りを見せる。娘らしい態度に、私はなぜだか安心感を覚えた。
娘に続いて敷石の上を進む。デパートの紙袋の中では、線香の箱や数珠に囲まれた数輪の黄色いたんぽぽが窮屈そうに収まっている。赤ん坊を取り上げるようにそれらを掬い、切り口を覆う湿ったティッシュペーパーを取り除いた。在来種のたんぽぽは春にしか咲かないが、外来種のものは秋頃に咲いているものもある。とはいえ、この季節にたんぽぽの花を手に入れるのには毎年苦労している。
娘が置いた両脇の花立に、たんぽぽの花を分けて生ける。周りの墓と比べると一見質素だが、大きく開いたたんぽぽの花が集まっている姿は、近付いてみるとなかなか見ごたえがあった。線香に火を灯し、無言のまま娘に数珠を渡す。五年も経つと、一連の流れも慣れたものである。少し悲しくもあるが、時の流れとはそういうものだ。
紙袋を脇に置いて、娘と二人で拝石の上に並んでしゃがむ。こういう時だけは娘との距離が近くなる。母親の前では、仲良く見せたいのかもしれない。それはそれで娘らしいなと思いながら、手を合わせ、目を閉じる。
妻がいなくなってから、五年が経った。もうそんなに経ったのかと思う反面、あっという間という一言では片付けられないほど、苦しい五年間だったとも思う。
亡くなった人は遺された者の心の中で生き続けるとか、空の上から見守っているなどという類の話がある。妻が亡くなって少し落ち着いた頃に、よく聞かされたものだ。しかし誰もが薄々勘付いているように、私もそれが気休めであると知っている。私の中で生きている妻は、妻ではない。彼女はもう生きていない。この墓石の下以外、どこにもいない。だからこそ、私はたびたびここに来る。娘を連れて、家族団らんのためにやってくるのである。
いろんなことがあったよ。君がいない間に。
目を開けて、息を一つ吐いた。いつの間にか、指先は温まっていた。
右隣を見ると、ちょうど娘が目を開けたところだった。娘はこちらを向くことなくゆっくりと立ち上がった。
そうだよな。お母さんに話したいこと、いっぱいあるよな。
胸の奥で眠る大きな悲しみが顔を上げる前に、私は娘に続いて立ち上がった。
そこから、私と娘はいつも通り言葉を交わすことなく車に戻った。少し寂しくもあるが、いつものことである。妻だって、私たちが不器用な人間だとわかっているはずだ。車に乗り込み、よし帰るかと独り言のように言葉をこぼすと、案の定、娘は沈黙で応じた。
霊園を出ると、相変わらず道路は空いていた。青空の下、ひたすらに車を走らせる。世界は、ずっと何かを待ち続けているかのように寂しそうだった。
みんな寂しいんだ。きっと、そう見えるか見えないかというだけのことなのだ。
お母さん、と急に声がして、思わずぎょっとする。ルームミラー越しに後ろを確認すると、窓ガラスにもたれかかって座っている娘が、窓の外に目を向けたまま口を開いた。
「お母さん、元気そうだったね」
その言葉は、やけにはっきりと私の耳に届いた。その瞬間、私と娘の間にあった謎の緊張が緩む。それまで大した言葉が出てこなかった私の頭の中に、じわりと安堵が広がるのがわかった。娘が母親を大切に思っていることが、今更ながら嬉しかった。
そうだな、と言いながらハンドルを強く握った。言葉になったかどうかは、わからなかった。娘は、窓ガラスに頭を預けたまま窓の外を見つめている。その表情までは、ミラー越しにはわからなかった。
また近々、正月にでも来よう。その頃にはもっと冷え込んでいるはずだが、じきに娘の進路についても、家族会議せねばなるまい。妻だけでなくもちろん娘とも、話をしよう。どうせ、いつかは滅びる世界だ。声に出して話せるうちに、話しておこう。
きっと、世界が滅ぶときも私は妻に会いに来るだろうな。娘がそうしたがるかどうかはわからないが、私一人でもきっと来る。ここで、こうして花を供えて手を合わせるのだ。愛する人の傍にいたいと思うのは、その人が生きているか死んでいるかに関わらず、私の唯一の願いである。今でも、私はそう願っている。決して、ちんけなテレビ番組で取り上げられるようなものではない。
そんなことを思っていると、車のエンジン音に紛れて後部座席から鼻歌が聴こえてきた。
普段鼻歌なんて歌わないのに、不思議なことがあるものだ。わかりやすく機嫌が良い娘が、かわいらしかった。何か、心境の変化があったのかもしれない。もっと娘と話をしようと決意した矢先、「鼻歌なんて珍しいな」という言葉が喉元まで出かかったが、娘の鼻歌を聴いていたいと思い、言葉を飲み込んだ。やけにうまいなと思いながら、気付かないふりをして耳を傾けてみる。無駄に晴れ渡った空は、このハミングを待っていたようだった。ふとした匂いに何もかもを思い出すように、記憶がメロディとともに甦る。
春のような日差し。窓は開いていなくても、心地よい風が吹いているのはわかった。
世界の終わりなんて、来ないのかもしれない。
懐かしい響きに交じって、少女の声が聞こえた気がした。
名前を呼んでくれ 石川ちゃわんむし @chawanmushi-ishikawa
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