第5話

 夜のこいぬ座前には、今日も僕しかいなかった。

 いまさら、寂しいとも思わない。家にいたって、どうせ一人だ。

 この数週間のうち、夜の商店街に現れたのは酔っ払い一人と走り去っていく虎猫一匹だけだった。あの女子学生は、あれから一度も来ていない。どうせそうだろう、とは思っていた。結局、みんな口先だけなんだ。

 あれからというもの、母さんが夜勤の時にはほとんど欠かさずにこいぬ座の前でギターを弾いている。家の中でも弾いているが、やはり外に出てギターを弾くのとは違った。どうせ誰も見ていないのだけど、世界の誰かには聞こえているような気がするのだ。その誰かに向けてギターを弾き続けることが、僕の数少ない楽しみになっていた。ギターを弾くといっても、でたらめな曲ばかりだ。知っているコードを繋げてみるのだけれど、意外とコードの並べ方は適当じゃないんだな、と気付いた。おかしな響きになったり、うまく終わらなかったり。それでも、いろんなコードを覚えていくうちに、いくつかのパターンがわかるようになってきた。きっと、本屋やインターネットを探せばもっと詳しく知ることができると思うのだけれど、感覚的に覚える方が僕の性に合っている気がした。

 手先が冷たくなってきた。秋になって、急に寒くなったような気がする。今日も商店街に吹く冷たい夜風が、どこから来たかわからない落ち葉を転がしていた。

 ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、十秒ほど温める。もぞもぞと体を動かして温まろうとすると、ジャケットから母さんの匂いがした。やっぱり、落ち着く匂いだなあ、と思った。

 僕の母さんは、ずっと働いている。介護士として働いているのだけれど、週に一回くらいしか一緒にいられない。僕が幼い頃から働いていて、最近少し給料が上がったと言っていたけれど、それに伴って母さんはますます疲れて見えるようになった。そんな母さんを見てると、なんだか悲しくなる。僕はまだ中学生で、働いて手助けすることはできないけれど、できるだけ食べものとか服とか、お金を使わせないように意識するようになった。僕がここでいい歌をたくさん作って、たくさんの人に聴いてもらって、チップをもらえれば少しだけ助けられるのだろうけど、僕にはそんな才能はない。きっと、おじさんやおばさんに囲まれながら息の詰まるようなところで働かないと、母さんを助けられるほどのお金は稼げないのだろう。大人になったら疲れながら働かないと生きていけないのかなあ、と思うと、大人になりたくないと思ってしまう。もっとも、僕が大人になった頃には世界がどうなっているか、わからないけれど。

 気が付くと、同じコードを押さえたままずっと同じ音を弾いていた。一人でギターを弾いていると、どうしても考え事をしてしまう。いけないいけない、と思って左手首の時計を見ると、夜九時になるところだった。

 もうこんな時間か。そろそろ帰ってもいいかもしれない。帰るも帰らないも完全に僕の自由だ。どうせ、誰も来ないんだ。僕はそう思いながらも、動くと寒いから、立ち上がるのが億劫になっていた。

 でも、よく考えたらおかしな話だなあ、と思って頭を働かせてみる。僕がこの商店街で夜な夜なギターを弾きながら鼻歌を歌っているのは、誰かに強制されているからではない。僕自身が行動したかったからなのだ。それなのに、歌うことすら作業になってしまっては意味がない。純粋な気持ちで音楽を続けることって、もしかしたら難しいのかもしれない。

 そんなことを考えながら、商店街の屋根に向かってふーっと白い息を吐き出す。温暖化しているという割には、寒い空気だ。冷え込むのはまだこれからだというのに。

 夜の商店街は人の気配どころか物音一つない。まるで、街全体が息をひそめて何かを待っているかのようだ。

 コツ、コツ、と硬い足音が空っぽの商店街に響いてくる。誰か来たようだ。ここを夜に通りかかるなんて珍しいなと思いながら、ギターを弾くことに集中しているふりをして、話しかけられまいと、僕はキャップを目深に被り直す。

「やっほ、元気?」

 足音が僕の正面方向にやってきたとき、女性の声が聞こえた。ぱっと顔を見上げたとき、数週間前にここで会ったあの女子学生の姿が見えて、なぜだか安心した。少し伸びた髪の毛と冬用の黒い制服のせいか、以前よりも少し大人っぽく見えた。

 ああ、と愛想のない返事をする僕に、彼女はゆっくりとした口調で話しかける。

「寒くないの? 風邪ひいちゃうよ」

「上着あるから、大丈夫だよ」

 そう、と言った彼女は肩にかけたバッグとは反対側の手をポケットに突っ込んで、缶入りのドリンクを取り出した。

「これ、あげるよ」

 あ、ありがとう、と言って両手で受け取る。冷え切った指先が、じんわりと温まっていくのがわかった。見てみると、ミルクコーヒーだった。

 そのまま立ち去ってしまうのかと思ったが、少女は腕時計をちらと見て、僕の目の前にしゃがみこんだ。前会った時よりも近い気がして、少しだけ身構える。

「最近ちょっとバタバタしてて。元気だった?」

 突然彼女は、聞いてもいないのに言い訳のようなことを言う。さっきまで足音以外の音を立てずに黙って歩いていた人とは思えないほど、急に明るい雰囲気になった。

 コーヒーをポケットにしまいながらうなずくと、彼女はにっこりと微笑んで艶やかな黒髪を揺らした。久しぶりに見ると、本当にきれいな人だった。

「よかった。しばらく会わないうちに、風邪ひいちゃったかと思った」

 この人の考えていることが僕にはわからないなあとつくづく感じた。数週間ぶりに出会った見知らぬ中学生に対して、ここまで親切になれるなんて。僕だったら、絶対に関わりたくない。夜中に街へ出て一人で歌を歌うなんて、中学生とはいえ不審者に違いない。そんな僕にも、変わらず笑顔を向けてくれるのは、なぜなのだろう。そもそも、もう会えないと思っていたのに。誰にでも優しく笑顔を振りまく人、とは思いたくない。もしかしたら、彼女も僕と同じくらい変な人なのかもしれない。僕は彼女になんて言えばいいのかわからず、とりあえず彼女を真似て笑った。

「ずっとここで歌ってるの?」

「…うん」

「そっかあ、歌うの好きなんだね」

 彼女の言葉に、うなずくことも首を横に振ることもできず、「うーん」とだけ言った。

 彼女は、いたずらっぽく口角を上げた。

「そういえばさ、曲つくるとか言ってなかったっけ。できたの?」

 曲ができたかなんて、会うのは二回目なのに遠慮なく訊けるなんて、きっとおしゃべりが好きで明るい人なんだろうな、と思った。僕だったら同じようには訊けないだろう。

 いや、と言いかけて思いとどまる。ここで曲を作ってないというと、彼女はがっかりしてしまうだろうか。そこまで期待はされてないかもしれないけど、作ってないと言ったら彼女は帰ってしまうかもしれない。

 んん、と少し考えるようにうなり、ちょっとだけ、と答える。

 お、いいねえ、と彼女はにっこり笑って言った。素敵な笑顔だなあ、と思うと同時に、近所のおばさんみたいなことを言う彼女のことが、少しだけおかしかった。

 聴かせて聴かせて、と言う彼女を前に、僕はしまったなと思った。ギターだけなら、コードを弾いておけばいいからできないことはないが、歌詞に関してはそうはいかない。メロディもなんとなくでしか作れないし、それに言葉をのせるのが簡単でないことはやったことのない僕にでもわかる。

 参ったな、と思いながらも、作ってないことを悟らせないためにもジャッ、ジャッ、とコードをいくつか弾いて確かめてみる。メロディは即興で、なんとなくでいいのかもしれない。単純なコードしか知らないから、メロディも単純でいいだろう。歌詞も、今の僕が思ったことを言葉になおすことしかできない。仕方ないな、と思い、最初のコードをゆっくりと弾いてみせる。

 そして、続けて口から飛び出してきたのはこんな言葉だった。

「せかいが おわる」

 その言葉から、瞬時にオルギリオの予言のことを思い出す。世界が、終わる、その日に、僕はどうするんだろう。目線をすっと上げると、そこには真剣な目でこちらを見る彼女がいた。

 一瞬考えた僕は、節をつけてそれを彼女に伝えた。


 世界が終わる、その日には

 両手いっぱいの花束を君に送らない

 ほんの一輪でいいから

 たんぽぽの花を見に行きたい


 テレビで見た、どんなに有名な人たちでも

 みんな滅びてしまうのなら

 僕は僕のままでよかった

 生まれ変わらなくてよかった


 こんなもんかな、と思い、僕は最初と同じコードを鳴らして締めくくった。何より、もうこれ以上の言葉は出てこなかった。

 すごーい、と感心したように彼女は手を叩いた。僕のギターの響きを上書きするように、彼女の拍手する音が夜の冷たい空気に広がっていった。

 ギターから手を離してジャージのズボンで手汗を拭う。恥ずかしくなるくらいたくさんの手汗をかいていた。

「ほんとに自分で作ったの? すごいね」

 彼女は僕の目をまっすぐ見て言った。心から言ってくれているのが、よくわかった。例え演技だとしても、嫌ではなかった。

 僕は妙に落ち着かず、何度も咳払いしてごまかした。彼女が見ているとはいえ、ありもしないでたらめな歌を歌うなんて、僕は何をしているんだろう、と思うとますます恥ずかしくなった。入念に準備して歌ったわけではないし、声も震えていたと思うし、顔も熱いし、何を言ったのかもあまり覚えていない。それでも、彼女の表情を見ているとなんだか誇らしかった。

「ええ、すごいなあ。プロになれるじゃん」

「いや、それは…」

 無理だけど、もしも本当になれたなら、どんなにいいだろうかと思いながらも、さすがに無理だよ、と言い切った。

「えー、頑張ったらいいのにい。応援するよ」

 そういって彼女は得意げに笑った。笑った時に細くなった目がかわいらしかった。

「ちなみにさ、いまの曲、誰に向けた歌なの?」

「え?」

 間の抜けた僕の声が、変に大きく聞こえた。いたずらっぽい彼女の問いに、いや、と言ってから僕は次の言葉に困ってしまった。

 僕は何も言わず、ゆっくりとキャップを脱いだ。そして、それを裏返して彼女の前に差し出す。汗でかゆくなった後頭部を乱雑に掻きながら彼女と目を合わせると、彼女はまた目を細くして笑った。コーヒーあげたでしょ、と言いながら鞄から小銭入れを出し、彼女は御賽銭のように百円玉を投げ入れた。

「これ、前払いでもあるからね」

「…どういうこと?」

「二曲目、楽しみにしてるね」

 そう言って彼女は、すっくと立ち上がった。本当に勝手な人だなあと思い、僕は苦笑いする。でも、別に悪い気はしない。

 あんまり夜更かししたらダメだよ、と彼女は透き通った声で僕に言った。胡坐をかいたままギターを脇に置いて、うん、と返事する。

 じゃね、と言って小さく手を振った彼女は、僕が手を振り返す間もなくこいぬ座の前を立ち去ってしまった。

 不思議な人だ。風みたいな人だ。こつ、こつ、という軽やかな音が冷たい風に乗って商店街を吹き抜ける。

 僕は彼女のうしろ姿を見ながら、ダウンジャケットにしまい込んだ缶コーヒーを静かに握った。コーヒーは、まだ温かかった。

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