第4話

 生徒とともに外へ出ると、外はすっかり涼しくなっていた。ひぐらしの声が冷えた空気とともに、久しぶりのバレーで疲れた体をほぐしてくれるようだった。

「おーい、このタオル誰のだあ」

「あ、俺のじゃん。あざーす」

 後ろで力強い声を出す遠藤に、一人の生徒が反応して駆け足で体育館に戻る。ずいぶんとくだけた口調だなあ、と思いながら靴を履きなおす。運動靴を履いたのも、思えばずいぶん久しぶりだ。バレー部副顧問としては失格かもしれないが、副だからまあ大丈夫だ。

「先生、明後日の練習試合、すかっち来るん?」

「いらっしゃるんですか、だろ。あと、大須賀先生のことをすかっちって呼ぶな」

「私は明後日研修だから、遠藤先生だけだよ」

「ええー、つまんな。そうちゃんもう飽きたよ」

「飽きたとか言うな。あと、おれのことをそうちゃんって呼ぶな」

 世話焼きな遠藤は、生徒の言葉に細かく反応していく。これじゃ疲れるのも無理ないな、と思いつつ彼はそれが楽しいんだろうな、となんだか微笑ましい気持ちになった。

「おいお前ら、あと三分で完全下校の時間になるぞ」

「やべえ、先生さよならあ!」

 遠藤の一声でバレー部の男子生徒やマネージャーたちは、自転車小屋へと一斉に走り出した。他の部活の生徒たちも、それを見て慌てだした。腕時計で時間を見てみるとまだ五分以上あったが、早く帰るに越したことはない。遠藤は私の方を見て、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「大須賀先生、いまから空いてます?」

「教材づくりは終わらせておきましたよ」

「今日はだいぶ動きましたから、酒が染みますね」

 そう言って遠藤は、にやにやしながら体育館の鍵を閉めに行く。

 最近はどちらも忙しく、二人で食事に行く時間がなかなか取れなかった。いろんな愚痴がありそうだな、と思いながらも、どこか楽しみになっている自分がいることに気付いた。

 まるで、世界の終わりなんて来ないみたいだな、と思った。



 遠藤の家から自宅に帰ってきたのは、夜十時を回った頃だった。

 いい具合に酔っ払った遠藤が寝てしまわないうちに、彼の家を出るのは至難の業だった。引き留める遠藤に、「娘が帰ってくるから」と言ってどうにか帰路についた時には、外の空気はすっかり冷たくなっていた。娘には鍵を持たせているから、急いで帰ることもないのだが、娘そっちのけで酒を酌み交わすのは親として情けない気がした。

 私には、十七歳になる娘がいる。私が勤務する高校とは別の高校に通う娘は、放課後、家の近くの学習塾で勉強をしている。娘が家に帰る時間は十時を過ぎるため、娘と私がともに同じ夕食を囲むことはめったにない。それを寂しいと思うことにも、最近慣れてきてしまった気がする。

 親失格だな、と思いつつ家に入ると、家の中は暗いままだった。まだ娘は帰ってきていないようだ。

 明かりをつけ、荷物を居間に置いてからカーテンを閉めてまわる。昨日も同じことをした。同じ日を二度繰り返しているような気分だ。もちろん、似たような日の連続は二度どころではないのだが。

 手を洗ってからテレビをつける。時間が止まったかのように静まった部屋に、民放番組の賑やかな音が流れ始めた。民放なんて普段見ないから、娘が学校に行く前に見ていたのだろう。「世界の終わりに」という番組だった。世界の終わりまでに何がしたいかを募集してそれを叶えるという内容で、確か、結構な人気番組だったはずだ。考えてみればずいぶん予言頼みの番組である。これで視聴率が稼げているのだから、オルギリオさまさまといったところだろうか。

 ラジオ代わりにテレビをつけたまま、台所に向かう。朝は弁当を作るのに忙しく、食器を洗う暇がないのだ。私の妻だったらうまくやりくりできるであろうが、私には苦手な分野である。

 蛇口をひねると、冷たい水が静かに出てくる。もうそろそろ寒くなり始める。だんだんと皿洗いが嫌になってくる季節だ。食洗器を買った方が良い気もする。後で調べてみよう。

『さて、今回お越しいただいた山中さんは、現在アパレルブランドの社長でいらっしゃるそうですね?』

『はい、そうです。この番組は以前から娘と二人でよく見ていまして…』

 蛇口を閉めると、テレビから流れる二人の女性の声が急に聞こえてきた。今回の夢を叶えてもらう人なのだろう。アパレルの社長か。いい生活してるんだろうな。でも、そういう人に限ってコンビニのごはんとかファーストフードとかが好きなんだろうな。社長、と聞くだけでやけに想像が膨らむ。どれだけいい生活をしている人にも、世界の終わりは平等にやって来る。ヨハネの黙示録に関する書籍が世界中で飛ぶように売れているらしいが、その中にはたくさんの名の知れた芸能人や政治家もいて、同じように世界の破滅に恐怖しているのだろう。

 それにしても、母親と娘が二人でこんな番組を見ていて楽しいのだろうか。正直、家族で見ていてそれほど話が弾むような番組ではない。娘の年齢にも寄るのかもしれないが、私にとっては見ていて楽しい番組ではない。いちいちチャンネルを変えるのが面倒だからつけているが、好んで見るような番組ではないな、と思った。

 ガチャ、と玄関の方から音がする。娘が帰ってきたようだ。ずっ、と鼻をすする音がする。酒が入っていたからあまりわからなかったが、どうやら外は寒いようだ。そろそろヒーターを出した方が良いかもしれない。

 おかえり、とテレビの音に負けないように大きめに声をかける。返事はなく、代わりにトン、トン、と階段を上がる音だけが聞こえてくる。自分の部屋に上がったようだ。返事がないのはいつものことだが、夜遅くまで勉強して疲れたのだろうか。

『…はあー、なるほど。そんなときに旦那様が亡くなられて、大変だったんじゃないですか?』

『そうですね、娘もちょうど小学校に上がる歳でしたから、かなり大変でしたね…』

 テレビでは、先ほどの二人がまだ話し続けている。女性の人生を振り返っているようだ。

 アパレルの女社長なのだから、わざわざ振り返るような波乱の人生があるのかもしれない。しかし、娘と仲良くテレビを見ている話だって、女手一つで娘を育て上げてきた話だって、どうも私の耳にはテレビによって商品化されているようにしか聞こえなかった。

 蛇口をひねって、泡を流す。水の音でテレビの音が掻き消える。聞きたくない件だったから、ちょうどよかった。大切な人を失うつらさは、テレビごときで語りつくせるようなものではない。

 私の妻は、五年前に乳がんで他界した。私の娘がちょうど小学校を卒業する年で、あれこれあたふたしたのを覚えている。多感な年頃だった娘が、その後しばらくの間、寝る前に寂しくなって泣いていたのを思い出す。しばしば、私も一緒になって泣いていた。今となっては挨拶しても無視されてしまうようになったが、妻の墓参りだけは毎年欠かさず二人で行っていた。

 そういえばそろそろだな、と思って後ろの冷蔵庫に貼ってある小さなカレンダーを見てみる。二週間後の土曜日に、赤い丸が書いてある。しばらく前に私がつけたものだ。きっと覚えているとは思うが、明日以降娘に確認しておこう。は、知ってるよ、と冷たくあしらわれるかもしれないが、念のためだ。

 手が冷たくなってきたから、手早く食器をすすいで水切り用のかごにのせる。少し前までは生ぬるい水が出ていたのにもう冷たくなるなんて、時間の流れは早いなあ、と思う。この感じだと、きっとあっという間に世界の破滅がやってくるんだろうな。結局、娘にとって良い父親であれたかどうかはわからないし、妻にとって良い夫であれたかどうかもわからないけれど。おそらく、世界が終わる瞬間になってもそれは私にはわからないのだろう。きっと、そういう人生だ。

 蛇口を閉めて、タオルで手を拭く。なんだか悲しくなったな、と思い、やかましいCMが流れるテレビを消して、私は風呂場へと向かった。

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