第3話

 この町の商店街は、閑散としている。特に、夜の空気は淀んでいた。

 シャッター街となった商店街には、誰の姿も見えなかった。昼間は多少の人通りはあるが、夜になれば死んだように静まり返る。かつてはおもちゃ屋や八百屋などが立ち並んでいたと聞いたことがあるが、今となってはその面影はまるでない。

 ところどころさび付いたシャッターを横目に少し歩き、足を止める。薄汚れたシャッター街の中で、シャッターが閉まっていない店があった。とはいえ店自体の外観は廃墟も同然である。どうやら、シャッターがもとからないようだ。今も営業しているのかどうかはわからないが、店先の地面はきれいだった。見上げると、横長の大きな看板には「こいぬ座」という文字があり、小さな電球で飾られている。そのどれもがくすんだ色をしているのが見えた。古い映画館のようだ。

 来た方向を振り返っても、人影はなかった。本当に誰もいない。金曜日だというのに酔っ払いすらいやしない。誰かにばれるかもしれないと思ってかぶってきたキャップに、あまり意味はなかったようだ。本当に何もないな、と思いながら「こいぬ座」の店先に腰を掛ける。変な世界に迷い込んだような感覚だ。他に商店街に座ってギターを抱える者などいるはずもない。しかし、それが今の僕にとって最も必要なことであるような気がした。

 介護職に就いている僕の母さんは今日も夜勤だ。帰ってくるのは僕が学校に行く時間と同じくらいになるだろう。というわけで、特に家に帰る必要もないのだ。今日は金曜だから、このまま朝を迎えてもいいくらいである。時計を忘れたな、とふと思う。まあ、眠くなったら帰ろうか。どうせ誰もいない。

 体勢を整え、右手だけで軽く弦を鳴らしてみる。小さな和音が、空っぽな商店街を転がっていった。優しく弾くだけで空間に音が広がっていく感覚は、本当に心地よい。適当にコードを抑えて弾いてみる。誰かに聞こえているような気がして、音を止めた。もちろん誰もいないのだから誰かに聞こえていることもないはずだが、うるさいぞ、と怒られそうな気がした。とりあえず音量を抑えて、何か弾いてみようかな。そう思って適当なハミングを混ぜながらいくつかのコードを奏でてみる。いつも自分の部屋でやっていることなのに、外に出てみると変なことをやっているように思えた。とはいえ、誰もいないのだから、僕の部屋にいるも同然だ。

 そのまま僕は、ギターを鳴らしながら鼻歌を歌った。幾分見栄えの悪いステージだが、夜のシャッター街は僕にお似合いなステージだった。何のためにやっているのかはわからないが、ギターを弾きながら感じる秋の夜風が、僕には心地よかった。

 ぼんやりと地面を見つめながら、ギターをつま弾く。ぼーっとしていることを自覚しながらも、動くのは指先ばかりだ。

 世界が終わってしまうというのに、僕はのんきにギターを弾きながら鼻歌を歌うことしかできない。なんだか、虚しかった。でもそれは、僕だけじゃないはずだ。きっと有名なたくさんのミュージシャンたちだって、世界が終わると言われても、音楽を演奏し続けることしかできない。結局、音楽は屁の突っ張りにもならないんだろう。それを必死になって演奏している僕は、この世界にいないようなものなのかもしれない。

 商店街に、一際冷たい風が吹く。

 思わずはっとする。ギターを弾いていた手も自然と止まる。

 気付けば、弦を抑えていた左手がじんじんと痛み出していた。何かに突き動かされているみたいだ。それが何かはわからないけど、僕にとってきっといい衝動なのだろう。

 いつの間にか、半袖だと肌寒い季節になったようだ。何時だろうと思い時計を探して顔を上げると、こいぬ座の向かい側に人影が見えた。視線も音も凍り付いた。

 こいぬ座の向かい側、和菓子屋の前に一人で立っているのはセーラー服を着た女子学生だった。僕よりも年上に見えるから、きっと高校生くらいだろう。紺色のトートバッグを肩にかけ、さっきまで見ていたのであろうスマートフォンを胸元に当ててこちらを見ていた。整ったその顔立ちと黒いショートヘアーが、白いセーラー服には不釣り合いに見えた。いったいいつからそこにいたのだろう。なんだか、怖いなと思った。

「なにしてるの?」

 彼女は、突然口を開いて言った。僕のわずかな恐怖心をかき消すような、柔らかな声だった。彼女の言葉は、夜中にギターを鳴らして歌う僕を責めるわけではなく、純粋な好奇心で訊いているのがわかった。

 いや、と言ったはずが、声にならなかった。二度咳払いをして、答える。

「別に、なにもしてないよ」

「ふーん、なにもしてないんだ」

 そう言って、彼女は肩にかけていたバッグを手に持ち直しクルクルと回しながら、コツコツと小気味良い足音を立てて僕に近づく。

「私も昔ギターやってたんだけどね、あきらめちゃった」

 一メートルほど離れた所で立ち止まって、彼女は僕と目線を合わせるようにしゃがんだ。その拍子に柔軟剤かなにかの甘いにおいがして、素直にいい匂いだと思った。遠くから見ると黒く見えた髪の毛も、近くで見ると焦げ茶色だったことに気付く。普段、異性と接することが少ない僕にとって、彼女のいろいろなことが新鮮だった。しかし、なんだか子ども扱いされているように感じ、僕は咳払いで少し威嚇する。

「ふうん、そう」

「こんな時間に外居たら、寒いでしょ。お母さんとか、心配しないの?」

「母さんはいま仕事だよ」

「んー、そっか」

 彼女は、返答に困ったようにこいぬ座の看板に目を移す。そして、いたずらを思いついたようにねえ、ねえ、と僕に呼び掛ける。

「なんか聞かせてよ。せっかくだし」

 何がせっかくなんだ、と思いながらも、外出てきた甲斐があったことが嬉しかった。しかし、何といっても演奏できる曲が特別あるわけでもない。いろいろと矛盾してるなあ、と思いながら答える。

「別に曲とかは、ない、よ」

「ええ、もったいなあい。なんか作ればいいのに」

「結構難しいんだよ…」

「ふうん。簡単な曲でいいから作ってみたらいいのに」

 彼女はわかりやすく口を尖らせた。

「まあ、いいや。ちょっとだけ見させてもらったし」

 そう言って彼女は前髪を触りながら立ち上がった。別に大したものは見ていないだろうに、バッグをごそごそと探る彼女はなんだか得意げだ。面白い人だな、と思った。

 すると彼女は、突然僕に一歩近づき、僕がかぶっていたキャップをとった。あっ、と驚いて声をあげたが、彼女はすぐにそのキャップを裏返しにして僕の目の前に優しく置いた。テレビで見たマジシャンのような手つきだった。

「帽子はね、こうやって使うんだよ」

 彼女はそう言いながら、帽子の中に何かを投げ入れた。トン、と軽い音がする。

 見るとそこには、百円玉が一枚入っていた。

「えっ、いや、これ…」

「いいの、曲ができたらまた聴きに来るね」

 彼女はすらすらと言葉を並べたかと思うと、小さく手を振って軽い足取りで商店街を去って行った。こつ、こつ、という足音は僕が来た方とは逆の方向へ遠ざかって行った。。

 なんだったんだろう、あの人は。ちょっとだけ暇つぶしにはなったし、チップもくれたけど。何がしたかったんだろう。よくわからないけど、彼女もやっぱり、僕から離れていくんだなあ、と思った。また来るとは言ってたけど、曲ができたかどうかなんて、伝える方法もないし。

 最初は興味をひかれる何かがあっても、僕の内面がそれを台無しにしているかのようだ。きっと、彼女もそうなんだろう。でも、それはどうしようもないことだ。

 なんでこんなこと考えているんだろう、と急に我に返る。何かが変わりそうだと思って家を飛び出したのに。結局、僕は僕のままなのかもしれない。

 やっぱりちょっと寒いな、と思い、ギターをぎゅっと抱える。そろそろ僕も帰ろうかな。そう思うと、急に眠たくなってきたような気がした。

 ここで寝るのはさすがに嫌だ。僕は少し身震いし、ギターのネックを握って立ち上がる。場所を選んだおかげで、僕のジーンズに目立った汚れはなかった。

 キャップをかぶって尻をパンパンとはたき、百円玉をポケットに入れて来た方へと歩き出す。動いていると、意外にも空気は涼しかった。

 背中に少しだけ強い風が吹きつける。彼女が帰った方向。台風前夜みたいな風だ。

 嫉妬とか、いら立ちとか、僕の中の余計なものを吹き飛ばしてくれたらいいのになあ、とぼんやり思った。


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