26話 黒と襲撃と土だるま
***
黒く禍々しいそれは、彼の大切な少女と共に去ってしまった。
先程まで辺りに充満していた漆黒の闇は風に吹き払われ、息苦しさが薄れたためか、誰かが大きく息を吐く。
無限に涌き出るかのように思われた奇形種達は全て向こう側に押し返され、こちらに出てきたものは地べたで沈黙している。岩壁の上の騒がしさも一段落したようなので、上に登っていった奇形種についても対処が完了したのだろう。
だがしかし、彼にはそんなことはどうでも良かった。
「な……んで、何でなんだよっ!?」
少年が悲痛な声で、佇む男に掴みかかる。
「アヤが! アヤまでっ! どうして撃つんだっ! アヤは操られてただけだ! アヤが悪いんじゃないのに……どうして……どうしてっ!!」
不思議なことに、口撃の間に少年が掴みかかった男の体が萎んでいく。彼の腿と同じくらい太かった腕が細くなり、見上げる位置にあった顔が、少年と同じ高さに移る。
少年を静かな眼差しで見詰めるのは、数多の年月が刻まれた皺と澄んだ大気のように静謐な雰囲気を纏う老爺だ。先程までいた鬼神の如く荒々しい冷徹な若い男は、今や見る影もない。
老爺は少年の名を口にした。老爺に覆い被さらんばかりだった少年が、びくりと身を震わせる。
しかし老爺が続きを言葉にする前に、崖上から太い男の声が降ってきた。
「おーい。こっちは粗方片付いたけど、そっちはどうだー?」
風に乗って届いたその声に、二人から離れた場所で黙って成り行きを見守っていたぼろぼろの若い男が崖上を見上げ、一瞬躊躇ってから口を開いた。
「恭斉ですか!? こちらも方がつきました。もう奴等が増えることはありません」
「りょうかーい。無事ならできればこっち来て怪我人運ぶの手伝ってほしいなー。人手が足りなーい」
降ってくる間延びした声に片眉をあげると、男は少年達を真っ直ぐに見詰めた。少年は顔を伏せて動かず、老爺もまた胸に縋る少年の後頭部を見詰めている。
「長老、行きましょう。上にはまだ貴方の助けがいります」
「……そうだな」
顔を上げた老爺は今一度少年を見ると、するりとその場を離れた。少年に背を向け数歩離れた場所で立ち止まった彼は、下半身に力を入れると、次の瞬間には空に向けて高く高く跳躍した。男が見守る中、老爺の姿は風に包まれ、遥か遠くまでぐんぐん離れて小さな影となってしまう。
男はそれを見送った後、ちらりと少年に目を向け口を開けたが、結局声をかけることをやめ、老爺に続くため背を向けた。
二人の姿が見えなくなると、少年は声もなく膝をつき、ただ涙を流した。
過去に類を見ない大量の奇形種の襲撃は、風の谷に浅くはない爪痕を残した。
死者六名、重傷者十三名、軽傷者多数、家屋全壊四棟、半壊十一棟、一部損壊二十一棟。現時点で行方不明者もいるため、死傷者が更に増える可能性も見込んでおいた方が良いだろう。
ほぼ丸一日谷中を巡り、状況の確認に奔走した天継は、長い溜め息をついた。いくらハンターとしてそれなりに実績を積んでいるとは言え、ここまで大規模な襲撃に遭遇したのは、若い彼には初のことだった。
耳にこびりついた悲鳴や泣き声、脳裡に甦る黒い奇形種達の牙や、爪──ケタケタと嗤う声を、意識して振り払う。恐らく復興にはかなりの時間を要するだろう。谷も、人も。
瓦礫と化した家の向こうから巨体が現れ、彼は顔を上げた。現れた男の背には谷にいる間には滅多に手にしない大剣が乗せられている。
「天継、ここにいたのか」
「恭斉こそ何の用ですか。未だにそんな剣を持ってこんな所へ来てもらっても、この辺りにはもう奇形種はいないようですよ」
天継は、のっそり歩いてくる図体のいい男を見遣った。重量のありそうな大剣を担ぐ男の歩みは、普段と全く変わらない。
先日の襲撃では真っ先に駆けつけ、谷底へ向かう長老や彼を送り出し、最前線で奇形種の群れを屠り続けたくせに、どう見てもほぼ無傷にしか見えないその姿に、天継は苛立ちを覚える。自分は長老に庇われながらも、怪我まで負い、結局ほとんど役に立たないばかりか最後は足手まといにまで成り下がったというのに。
彼の胸の奥に燻る暗い感情など物ともせず、周囲を見回した大男は気の抜けるような柔らかな笑顔を見せた。
「いやぁ。単なる気のせいだとは思うんだけど、何か妙に引っ掛かる感じがあってね。ちょっと見回りを」
「猫の手も借りたい程忙しいこの時に、襲撃の余韻に神経尖らせているこのタイミングで、目立つ大男が目立つ大剣持ってうろうろしているんですか」
「皆の不安煽らないように、中心部は避けてきたから平気なんじゃないかなぁ」
天継は、頭痛を堪えるように頭に手をやると、深く吐息をついた。
「で。成果は?」
「わからないんだわ。昨日のヤツらの気配が残ってるせいで、うまく感知できない。菊さんも今は療養中だからあまり頼れんしなあ」
「成果なしですか。……教会の子供達は、今日一日大人しくしてましたか」
「ああ。お前の指示通り、怪我人看病の手伝いやってるよ。全員な」
天継が口を噤み、恭斉が珍しく笑顔を引っ込め真剣な顔を向けた。
「詳しくは知らんが、ちゃんとあの坊っちゃんと話をした方がいいと思うぞ。今は誰も彼もがストレスを溜めまくってる。捌け口の見つからない感情は危険だ」
「……わかってます。でも、俺にはできない。俺も……わからないんだ」
弱々しく吐かれた言葉に眉をハの字に下げた恭斉は、太い腕でがりがりと頭を掻くと言い辛そうに口を開いた。
「──あー。。一応聞いておくけど、お嬢ちゃんは」
天継が静かに目を伏せる。
「長老が、向こうに還しました」
彼の横顔を見て、恭斉が長く長く息を吐いた。
「──そうか」
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