死に際に咲く朝
彼女を守ると誓った。太陽はもう傾き始めている。遠くの方から鳥の鳴く声が聞こえてくる。クラテスはずっとドアの前から退こうとしない。その青い瞳をじっと睨みつける。同じ瞳を持っているくせに、考え方は真逆のようだ。
「どいてくれない?」
もう何時間も交渉を続けている。
「ダメだ。ここをどいたらお前は病院に戻ろうとするだろう」
「そうだよ。それの何がいけないんだ」
「危険すぎる。それに、その子のために死んだとして、もし彼女の気持ちが変わっていたらどうする」
「だから、さっきも言ったけど彼女自身が僕にそう言ったんだ。そんなに心配だったら彼女を連れ出して確かめればいい。すぐに死のうってわけじゃないんだから」
この話も何度も話した。同じようなやり取りを何度も何度も繰り返している。クラテスは行くな、危険だ、やめろの一点張りだ。もう限界だった。
「クラテスに昔何があったか知らないけど、好きな人を守ろうとして何が悪い!」
僕は怒鳴り散らす。
「お前は! 残されたほうの気持ちを考えたことがないからそんなことを……」
クラテスの言葉からだんだん威勢が消えていく。ようやく弱気になった。このままいけばもしかしたら行けるかもしれない。そう思ったが、急に黙ってしまったクラテスの顔はひどく傷ついているようだった。隣のリュークも。
「カロスの気持ちはよくわかったよ。でも、本当にその子は君を好きだと言ったんだね?」
「うん」
リュークはどう思っているのだろう。僕とクラテスが口論を始めてから、ほとんど言葉を発していない。その金色の瞳には、時計の文字盤が薄く記されているだけで、何も読み取ることができない。
「そっか……。じゃあクラテス、僕は連れていくべきだと思うよ」
「ほんとに!」
リュークはクラテスに申し訳なさそうに視線を送る。クラテスはショックで声も出ないようだった。リュークが賛成してくれたことが素直に嬉しい。残るはクラテスだけだ。
「確かに残された人がつらい思いをするかもしれない。自分だけ死んでいくのは無責任かもしれない。でも、あの子には生きてほしいんだ。彼女がこれからも生き続けるのは僕の何よりの幸せだ」
クラテスはうつむいたままだ。これでだめだったらまた振出しに戻ってしまう。もう夕暮れ時だ。行くならばすぐに準備をしないといけない。ずっと黙ったままのこの状態が何ともじらしい。
クラテスは意を決したように、ようやく顔を上げる。
「いいだろう。一度病院に戻ることを許そう」
やった。これで彼女のもとに行ける。思わす小さくガッツポーズをしてしまう。
「でも俺も一緒に行くからな。一人で行くのは無謀だ。行くのは夜になってからだ」
それまでに準備しておけ。とだけ言って、クラテスは部屋を出ていく。夕焼けが、書斎を赤く染め上げていた。
夜空に浮かぶのは、昨日よりもほんの少しだけ膨らんだような歪な月だ。冷たい風が吹いている。病院の服は着替え、代わりにクラテスたちが昔来ていた服と暖かいコートを着せてもらった。クラテスは昨日乗っていた箒よりも大きな箒を引っ張り出してくる。クラテスが柄を強く握ると、箒がふわりと浮く。放棄にまたがろうとした時、リュークに呼び止められる。
「ちょっと宝石を一つ出してみてくれない?」
何のために使うのかわからないが、言われたとおりに涙を落とし、それを渡す。
「はいありがとう。ちょっと貸してね。」
リュークは僕の涙の結晶を、ナイフの持ち手のくぼみに埋め込む。すると不思議なことに、ナイフの刃が青く光りだす。ほんの数秒で光は消えていき、逆に埋め込んだ涙の結晶が輝きだした。
「フィロスが作り出す物は言わば、フィロソフィアの使う力の欠片なんだ。そしてこのナイフみたいな専用の武器などに埋め込むことで、そのものに一時的に力を与えることができる。これだとそうだね……。あと一日くらいは持つんじゃないかな」
リュークはナイフを持たせてくれる。
「ありがとうリューク」
小さな刃だが、今の自分にとってはとても心強かった。
「気を付けてね……」
心配そうに僕らを見つめてくる。
「大丈夫だよ。行ってきます」
僕がそう言うと、箒は動き出す。気の高さほどまで上昇し、一気に加速する。リュークと、ポーチの明かりがどんどん小さくなっていく。これから院長のもとに行くのだ。もし捕まってしまったらどうなるだろう。すぐにでもオークションに出されてしまうのだろうか。大丈夫だとは言ったものの、そんなことを考えると恐ろしくなってくる。
「病院に行ったら二手に分かれるぞ」
不意にクラテスが話しかけてくる。
「俺は中庭で職員たちをひきよせる。お前はその隙に一人で行けるな?」
「うん」
そうだ、自分の身を案じている場合ではない。かなりの無理を言ったんだ。クラテスに頼らず、彼女を助け出さなければ。
しばらく草原を飛び続け、次第に病院が小さく見えてくる。
病院まであと少しだ。ひやりと汗が体をつたう。クラテスも、緊張しているのが伝わってくる。
クラテスは病院から少し離れたところで箒をおろす。一日ぶりの病院、その姿は、こんなにも不気味だったろうか。
箒は近くの木に隠しておき、病院の裏口から中へと入る。
「必ずここに戻れよ」
そう言って、クラテスはすぐさま中庭に走っていく。僕も彼女のもとへと急ごう。幸運なことに、入り口に鍵は掛かっていなかった。ここから彼女の部屋まではそう遠くない。彼女の部屋は図書室の二つ隣にある。図書室へは夜の散歩でもう行きなれている。最短なルートを選ぶ。
早く、早く、彼女のもとへ。
誰もいない廊下を、月明かりでできた僕の影と共に駆けていく。ついこの間までは気楽に歩いていた道。今ではもう、どこから敵が現れてくるかわからない。
何とか誰にも会わずに彼女の部屋の前にたどり着く。ずっと走っていたせいで、息が切れている。
恐る恐る、ドアノブに手をかける。彼女はいるだろうか。僕なんかが本当に彼女を救えるのだろうか。そんな考えが脳裏によぎる。しかし今はそんなことを考えている場合ではないだろう。僕は思い切ってドアを開け放つ。
彼女は、そこにいた。その姿はいつもと変わらない。白く美しい陶器のような肌。真っ白な髪。右腕にはカスミソウが咲いている。窓から差し込む月明かりがその姿をさらに白く美しく輝かせている。
迷う必要などなかった。こんなにも愛しい彼女が死んでしまうなんて、そんなことはあってはいけない。
「セレネ。僕と一緒に行こう」
「あなたは……?」
包帯をしたままの彼女には僕の姿が見えていない。
「ここから逃げ出すんだ」
僕はセレネの手を取って走り出す。人気のない廊下を。
クラテスはもう約束の場所にいた。その顔には、微妙な表情が浮かんでいる。
「なあ。なんだかおかしくないか」
先ほどから感じていた違和感を、クラテスも感じていたようだった。
「うん。誰もいなかった」
「やっぱり……。何がどうなっているんだ」
二人で顔を見合わせる。
「ともかくここを早く出よう」
クラテスと僕は、彼女を箒に乗せて病院を離れていく。妙な違和感がまだ残っている。どうして誰もいないのだろうか。
セレネはまだ状況が掴めていないようだ。こんな包帯をつけているからだ。セレネの包帯を解き放っていく。
セレネの瞳は、宝石になる僕の瞳なんかよりももっと青く澄んでいて、美しい。初めて会った時、その瞳に魅了された。月光が瞳を輝かせている。
何故だろう。涙が溢れてくる。こうしてここに愛しい彼女がいる。
歪な月を背景に、涙が宝石になって零れていく。
ようやくポーチの明かりが見えてくる。もう明け方が近づいている。
クラテスは箒を下ろしていく。やっと戻ってくることができた。リュークは玄関を出て、僕らを待っていてくれた。
森の向こうの空が、段々と薄く色づいてきている。平和な朝の訪れだ。湿度は高く、草木の匂いが辺り一面を覆っている。小鳥が羽ばたき始める。
視界の片隅で、何かが朝日に反射してギラリと光った。僕の瞳はそれを見逃さなかった。何か嫌な予感がした。それが何かを突き止めるよりも先に、体は勝手に動く。朝日に背を向けて、彼女を庇うように腕を広げる。
次の瞬間、森のほうから空いっぱいに矢が放たれる。僕は誰よりも早くそれに反応していた。何本もの矢が鈍い音を立てて背中に突き刺さってくる。クラテス達も自分の身を守ることで精一杯だった。
僕だけスローモーションの世界を見ているようだ。君は目を見開いたまま固まっている。良かった。君には一本たりとも矢は当たっていないようだ。
クラテスは倒れていく僕に気が付き、目を見張る。すぐに、森の方向へと走り出していく。泣いているようだった。怒りか悲しみかわからないが、何かを薙ぎ払うように、矢を放ってきた者たちを一掃していく。やはり病院の職員たちだ。僕たちが病院に行っていたころにはもう先回りしていたのだろうか。
背中に突き刺さった矢は、肋骨の間から、肺に隠れた心臓を貫通していそうだ。他の傷口からも血がじわじわと溢れてくる。
痛い。痛い。痛いが、心は安らかだ。これで君はきっと。
朝露と血が混じり合い、体を浸している。暖かい。
爽やかな朝によく似合う風が、君の髪をなびかせる。カスミソウの花も散っていく。白い花が、朝日の香りと遊びながら宙を舞う。
ああ、よかった。
ようやく目覚めた彼女が初めて感じる朝は、密かな花の香りと血なまぐさい匂いの入り混じった卑しいものとなってしまった。
しかし、花は散っている。彼女を蝕むものはもうない。
さようなら。愛しい君。
どこかから、君の好きな花の香りがした。
フィロソフィア 冠楽A @kanraku_A
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