昼過ぎの犠牲
初めのフィロスは、賢者の弟子だったそうだ。賢者は当時、神にその知識を与えられたのではないかと噂されるほどに偉大な人物であった。弟子も、彼のようになることを望んだ。しかし、彼は物覚えが悪く、人一倍に強い正義感しか持ち合わせていなかった。
師が知の神の子ならば、弟子は地の神の子だったのだろう。
彼は動物や植物など、あらゆる『自然』に愛されていた。森に出向けば小鳥たちが歌いだし、花が咲き乱れた。水を泳ぐ魚たちに、土に眠る種子たちに、さらには天さえもが彼を愛した。
そして彼は、神にその大いなる力を与えられる。だが、本物の神の力を受けるということはあまりにも残酷なことであった。神は、この力を使うならば、愛を犠牲にしてみせよと言った。全てを捧げよと。
彼は言い放った。
「私が愛するのはただ一人。お世話になった師だ。師を失ってまで力を欲しようとは思わない」と。彼は力など欲しなかった。ただ平穏に暮らし、いつか師のような人間になりたいだけだった。
しかし賢者はそれを聞いていた。賢者は、愛弟子が神の力を与えられるならば、自分は犠牲になっても構わないと思った。そして、賢者は自らの手で自分を壊してしまった。
弟子は、祝福を受けた。師の死とともに。
古い本に書かれた話だ。残酷で、儚い昔話。この力の起源には諸説ある。実際のところ、こんな形でフィロソフィアとなる者は滅多にいない。千人に一人いるだろうか。
まだ部屋で眠っている男はその千人のうちの一人だ。昨夜の疲れが残っているのか、昼を過ぎてもまだ起きる気配がない。寝かせておいてやろう。
問題はこちらの少年だ。ここにあるものが珍しいのか、朝からずっと家中を物色している。少年は今まさにこの書斎の扉を開けようと、ドアノブに手をかけている。彼には話さなければならないことがある。
「失礼します」
彼がそろりと部屋に入ってくる。読んでいた本を閉じ、笑顔で応対する。
「やあ初めまして。ちゃんと挨拶していなかったね。僕はリューク。こんななりをしているけど、君と同じフィロスだよ」
「フィロス……?」
「そう、フィロス。この家を探検するのもいいけど、そこに座って僕の話を少し聞いていかないかい?」
こくりと彼は頷き、椅子に座る。どうやらまだ警戒されているようだ。
「まず、僕の力は『瞳に刻まれた時計の文字盤がⅫを指したら死ぬ』っていう力。まだフィロソフィアになれてないからこのままいくと死んじゃうかもね。あとはまあ透視とかもできるよ。君は?」
「僕は『涙を宝石に変える』ことができます」
「なるほど。ふうん、なかなか面白いね君」
少年は僕が何を面白がっているか全くわからないといった様子だ。
「その力はね、かつてクラテスがフィロスの時に持っていた力なんだよ」
えっ、と彼が口にこぼす。その顔は豆鉄砲を食らった鳩のようだ。
「クラテス、僕、それにあそこの院長は小さなころ同じ孤児院で暮らしていてね。今となってはもう敵対する関係となってしまったが。」
そんなことよりも、と僕は話を切り替える。
「君には教えなければいけないことが山ほどある。どうせクラテスは詳しく話していないだろうしね。この力のことを。僕等は突発的に、不思議な力が使えるようになる。君の涙もだ。そしてそれは、太古の昔に我々の祖先が動物や植物たちを守る代わりにその力をわけるという契約をしたからではないかと言われているんだ。一般にはね。そして我々は力を受け取った。でも、フィロスはそれをコントロールすることができない力があまりにも大きすぎるからだ。力は逆に体を蝕み、そして、いつか身を滅ぼしてしまう。君も僕もね。でも、クラテスのようにフィロソフィアになれば、力は自由に使えるようになる。それはもう病気なんかじゃない。僕たちが持ち得る、大きな力となるんだ」
「フィロソフィアってどうやってなれるんですか?」
眼球をつら抜いてきそうな、生気に満ち溢れた若々しい眼差し。つい視線をそらしてしまう。視線の先にはクラテスが立っている。いつの間にそこにいたのだろう。少年はクラテスに気が付いていないようだ。クラテスもきっとこの少年に同じ質問をされたのであろう。そして、彼の返答はおそらく、
「クラテスには人それぞれだと、誤魔化されてしまいまいした。これって、そんなに教えたくないことなんでしょうか?」
やはり。クラテスは苦い顔を浮かべる。
「いいや、そんなことはないさ。むしろ僕たちにはそれを君に伝える義務がある。とても辛いことだ。だが君は知らなくてはならない。フィロスはとても弱い。そのままでは力に耐えきれずに簡単に潰れて死んでしまう。自然の恩恵を受けるにはそれだけの器がなくてはいけない。より強い器にするためには、犠牲を生まなければならない」
つまり。
「犠牲とは即ち、自分の愛するものを壊すということだ」
彼は一瞬絶句の表情を浮かべて固まる。騒ぎ立てないだけマシだ。僕たちは老人からこの話を聞いた時、声を荒げて老人に詰め寄っていた。
だが、彼の表情はすぐに変化する。なぜだろう。その表情は前にも見たことがある。
「ねえ。フィロスはみんなそうしなくちゃいけないの?」
「うん、そうだけど」
何か悪夢が戻ってくるような、嫌な予感がする。少年は何故か微笑む。
「じゃあ──」
「やめておけ」
クラテスが少年の言葉を遮るようにして割って入ってきた。
「カロス。お前が何を考えているか言ってみろ」
クラテスは青ざめて少年の肩を掴んで揺さぶっている。そんなことお構いなしに少年は言い放つ。
「あの病院に、僕を好きだと言ってくれたフィロスがいるんだ。僕が死んだら彼女を助けられるんじゃないかな」
そうか。この幸せそうな表情は、彼女にそっくりだ。散っていった彼女に。クラテスのために自ら死を選択した彼女に。
あの時の光景が蘇ってくる。
二人は彼女のことが好きだったようだけど、僕にとってはみんな大切な友達だった。だから、彼女が花を吐くようになってから、クラテスが孤児院に来てから、ゆっくり確実に関係が崩れていくのがとてもつらかった。
ああそうだ。あの花園に彼女を弔ったとき、僕等は美しい世界を見る権利さえも手放してしまったんだ。
彼もまた、宝石の如きその身を自ら砕き割ってしまうのだろうか。
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