戯言は水と踊る
その病院は異病専門の病院として、急速に有名となっていった。それは、治療のための入院、という形でフィロスたちをかくまうシェルターでもあった。フィロスたちはこれを喜んで受け入れた。また、元々フィロス達を煙たがっていた一般市民からも支持され、絶大な信頼を誇っていた。
しかしそんな病院にある疑惑がかかった。
裏の世界ではフィロス達の売買が行われている。フィロスがその力によって作り出す物は、それを作り出す環境・状況・そしてフィロス自身の感情などによって大きく質が変わるらしい。それらがきちんと整っていれば質の良いものとなり、劣悪であれば質の低いものとなる。フィロス達はおよそ人間として扱われないため、これまで取引されていた物は著しく質が悪かったようだ。
だが、ここ最近今までの物よりもはるかに質の高い、フィロスの『ブランド』なるものが形成されたのである。それだけでは誰も病院に目を向けなかった。しかしついこの間、病院に保護されたはずのフィロスの羽の一部が取引されたということが判明したのである。それに加え、その時期はちょうどあの病院が頭角を現し始めた時期だった。
俺は今回、その事実を探るために新職員として病院に派遣された。職員は病院に常在し、外に出ることは許されないため、長期間の潜伏となるだろう。そして、この病院は俺がかつて暮らしていた孤児院を改良したものだった。院長は幼い時を共に過ごした孤児の一人である。それは偶然とは形容しがたく、もはや因縁としか言いようがない。
俺は職員に成りすます。患者の様子を観察し、院長の指示のもと、治療を施していく。もちろん、顔も名前も変えているが。
調査をしていてわかったことがいくつかあった。今のところ、最も大きな成果と言えば患者の治療に関することだろう。職員は、以前患者が人間によってつけられた傷を治療するだけでフィロスの力、ここでは『異病』と呼ばれているものは、なんら治療されていない。病気などではないから当たり前のことだが。しかし、患者のフィロス達は自分の持っているそれが異病だと信じて疑わない。職員たちの言うことを聞いていれば、いつかその病気が治ると確信している。そんな簡単に治れば、
そもそも院長、いやあいつはあの時あの話を聞いていたはずなのだから、異病だと言い放っている時点で、何かを隠していることは間違いない。
潜入捜査を開始してから三週間目。一週間に一度、病棟の地下にある部屋で幹部たちと院長は密会をしていることが分かった。今晩はその日であり、夜には人がほとんどいなくなるため調査には絶好のチャンスである。
歪な形の月が窓の外に浮かんでいる。地下への扉にどうやら見張りはいないようだ。幸運なことにドアはほんの少し開いていた。俺はその隙間から体を滑り込ませる。普段は特定の職員でしか入ることを許されない場所だ。ここに一体何を隠しているのだろうか。事前に部屋の配置は把握していたので、迷いなく真っ暗な廊下を進んでいく。ようやく目的地である資料室へとたどり着く。用意していた特別な石に息を吹きかけ、光をともす。部屋の中が淡い光によってほんの少し明るくなる。この石もフィロスの力で生まれたものだ。
手前の棚の引き出しを開けると、中には分厚いファイルがいくつもしまわれていた。それぞれの表紙には『患者・情報』と書かれている。見た目はいたって普通のカルテである。問題は中身だ。ファイルを開き、中身を確認していく。
0279 カストレイア B
髪の毛が硝子に変化していく。一か月に一センチ浸食される。ガラスが割れると頭皮も共に破壊されてしまうため行動には注意が必要で……
0280 アーロン D
掌から蛇を生み出すことができる。生み出した蛇は毒を持ち、他の者が触れようとすると攻撃してくる。蛇は一度何かを噛んでしまえば……
0281 カノン B
体に傷を負うと、その傷口から血の代わりに小さな黒蝶が飛び舞う。黒蝶によって傷が治癒される。黒蝶は傷が癒えるまで出現し続ける……
0282 セドリック C
歩いた道が影になる。影になった場所は一度日陰になれば元に戻る。常に明かりがともされている場所は彼女の通り道ができる。日向に……
患者は番号ごとに並べられ、その特性、力、容姿、行動記録などこと細かく記録されていた。カルテとして不十分なところは見当たらない。ただ、一つだけ不自然な箇所がある。理由は不明だが、どのカルテにも必ず名前の後に「B・C・D」といったアルファベットが書かれている。
もう一つ、カルテの中身ではないが、おかしなことがある。今回この病院を調べるきっかけとなった翼生のフィロスのカルテがなかった。他にもファイルはないか探していくが、部屋にあるどのファイルにもそのカルテはなかった。もう一度部屋をくまなく探していると、一番初めに見た引き出しが不自然な深さになっていることに気が付く。調べると、引き出しの中は二段構造になっていた。
引き出しを外に出し、薄い底板を外す。本当の底には一冊の薄いファイルが入っていた。表紙には小さく『ノワーラー』と書かれている。高級なフィロス物品を出品しているブランドの通称だ。
しかし、これはこの病院が実用しているものではなさそうだ。引き出しに入っていた分厚いほうのファイルは紙が少し折れていたり、出し入れした痕跡があるが、このファイルのほうはそんな痕跡もない。それに、あいつの性格なら大切なものはこんな場所に置かず肌身離さず持っているだろう。そこから推測するに、これは職員の誰かが秘密裏にまとめていた物だろう。どうやら中身は本物のカルテをそのまま写したもののようだ。探していたフィロスのカルテもその中に入っていた。
0467 ルネ A
頭、腰、手首、くるぶしから羽が生えている。触れたものを飛ばすことができるが、自身は飛べない。頭、腰、手首から生えた羽は純白な……
こちらのファイルのカルテには全て『A』と書かれている。そしてそのほとんどは、これまで取引に出回っていた品を作り出しているフィロスのカルテだった。これは黒で間違いないだろう。
ファイルをめくっていくと、あるフィロスのカルテに目が留まる。
0087 カロス A
涙を宝石に変える。ストレスが少ないほうがより純度の高い宝石となる。硬度は八と高めである。涙を落すことに慣れている。深夜に徘……
思わず自分の目を疑った。『涙を宝石に変える』フィロス。昔の自分とまるで同じ力ではないか。フィロスの力が同じになった事例など聞いたことがない。いや、私はもうすでにフィロソフィアとなっているから関係ないのか。とりあえず、今後彼とは接触を図るとしよう。
しかし、そんなことよりもさらに驚くべきことが次のカルテにはあった。そのカルテには、他のカルテと違い一枚の写真が貼られていた。
0000 セレネ
右腕にカスミソウを咲かせる。発病とともに視力が低下し、日中は目に包帯を巻いて過ごしている。花壇に咲く百合の花の香りを好む……
力こそ違えど、写真に写ったその姿は正しく彼女であった。愛しい彼女。あの雨の降る日、散ってしまった、もう二度と戻ることはない花。
あいつはこのセレネという少女と出会ったことでこの病院を始めたのだろうか。この少女はいったい何者なのだ。病院内で彼女の姿を見たことがないのは何故だ。本当に実在するのか? 何より、もし本当にいるのだとしたら、一目でいいからこの少女の姿が見たい。
思いもよらない事に取り乱してしまったが、遠くから近づいてくる足音によって現実に引き戻される。
石にもう一度息を吹きかけ、明かりを消す。どうやら足音はこちらへと向かっているようだ。物陰に息をひそめ、その姿を確認する。背の低い、細い男の輪郭。廊下を通っていくのは少年の影のようだった。職員ではないようだ。それにしても、こんな夜更けにいったいどうしたのだろうか。影は時折、あたりをちらちらと確認している。あれはただ迷っているだけなのか、それとも警戒して周囲の様子をうかがっているのか。影は角を曲がっていく。ともかくこれ以上この場所にいるのは危険だ。一度部屋へ戻ろう。
そう思って部屋を抜け出そうとするが、少年が気にかかってしまう。もし、本当に迷い込んだだけなのだとしたら、患者がこの場所にいるのはかなり危険だ。なぜならこの奥では。
そうだ。あの角を曲がったところの部屋で密会が行われている。院長たちに見つかってしまったら最悪だ。なぜ忘れていたのだ。さっきのことに気を取られていたでは済まない。
急いで資料室を抜け出し、その角を曲がる。気付かれてしまう前に、少年を安全な場所へ帰さなくては。
角を曲がった先で、扉の前に立っている少年を確認する。
そこでは、今まさに、少年が涙を落そうとしている。涙は瞳から宝石に変わっていく。ああ彼がそうなのか。そんなことを一瞬思いながら、体は動いている。宝石が落ちる瞬間、彼を水のローブで包み込む。一歩、間に合わなかった。廊下に宝石が落ちた音が反響する。もっと早く動けていれば。だがそんな反省をしている場合ではない。部屋の中にいる職員たちは異変に気が付く。少年を包んだまますぐ近くの通気口へと逃げ込む。彼は気絶しているようだ。
彼女を失ったことで、俺は水を自在に操れるようになった。涙の力は強大な水の力となった。体を水に変化させることもできる。また、水でいくらでも顔を変えることができるので、潜入にも打ってつけだった。
だがまさか、自分の腹の中に人を入れる日が来るとは思わなかった。実際は腹の部分を水に変えてその水に入れているだけなのだが。
体も全て水に変え、通気口の中を滑っていく。入り組んだパイプの間を縫っていく。右へ。左へ。上に上がり、また右へ。さらにぐんぐんと上がっていく。子供一人を抱えながら移動するのはかなりの難問だ。
この少年はどうしようか。あそこには彼の落とした宝石が残ってしまっている。俺ももう既に目をつけられていた。もう、この場所に居続けるのは無理だろう。ならば彼は一緒に連れていくしかない・
と、腹のあたりから声が聞こえてくる。彼は目覚めたようだ。
「あんた一体何なんだ?」
まだ事態を把握できていないようだ。
「俺はクラテス。君たちを助けに来た」
「助けに?」
「そうだ。職員に成りすまして情報を集め、フィロス達を救出する。そういう任務で動いていた。お前のせいで予定より大幅に早く外に出ることになってしまったが。ついこの間入ったばかりだというのに、なっ。」
勢いよく格子を蹴破る。出たのは最上階の窓だ。水を硬化させて作った碇を屋上に引っ掛け、壁に足をかけて勢いよく上に登る。
床に少年を降ろし、体を実体に戻す。強い風が吹きつける。
「外までもう少しだ。」
「こんなとこからどうやって逃げるっていうんだ」
心配そうに少年が見上げてくる。
院内にはサイレンが鳴り響き、下の庭には続々と職員たちが駆けつけてきている。このまま人が増えていくと面倒だ。
「大丈夫だ。ほら早く。下に職員たちが集まり始めているじゃないか。しっかり掴まってろ」
俺は少年を抱えたまま、真っ逆さまに落ちていく。内臓が浮くような感覚だ。事前に近くの木に隠していた黒い柄の箒が、猛スピードで飛んでくる。それを片手でつかみ、くるりと回って軽やかに上に立つ。
職員たちは箒に向かって一斉に矢を放ってくる。少年をかばいながら水のローブを翻し、矢の勢いを殺し落とす。やつら、患者などお構いなしに殺しにきている。少年を再び水で包み、職員たちの隙間をすり抜けていく。
一瞬で病院の外だ。何人かの職員が走って追いかけてくるが、箒はぐんぐんと進み、病院はあっという間に豆粒ほどの大きさになる。
しばらく夜空を飛び続け、だんだんと速度を落としていく。少年は箒の後ろに座らせ、草原を低空飛行する。夜の静けさが戻ってきた。後ろをちらりと見る。少年は病院を離れてからずっと塞ぎ込んでいる。
「名前は?」
少年はぱっと顔を上げる。
「僕はカロス」
やはりカルテで見た少年か。カロスはじっとこちらを見ている。青い瞳、かつての俺と同じように涙が宝石に変わる瞳。まるで幼いころの自分がそこにいるようだ。
目のような形をした月を横切っていく。近くで見る月は、いつもと比べ物にならないほど大きく、星々を携えて夜の空に浮かんでいた。
「ねえ、クラテスは何で僕を助けたの」
カロスが話しかけてくる。
「お前だけ助けるつもりじゃなかった。さっきも言ったが、予定が狂ってしまったんだ。お前があの病院の仕組みに気づいたから、助けねばならなかった」
本当は、もっと証拠を集め、入院しているフィロスたちを解放するまでが今回の任務だった。
「院長たちは、僕らを売り物だと思ってたんだよね……」
悲しげな、今にも泣きだしてしまいそうな声。この歳には辛い現実であろう。
「……ああ、そうだ。あの病院は恐ろしい。表での評判はいいが、裏では奴隷商人や密売者共とも繋がっている。不治の病を患った患者とそれを支える優しい医者。かくしてその実態は、患者は商品、職員はその監視人というわけだ。フィロスの力は病気じゃないのにな。」
「フィロスって知ってるよ。動物たちや、人を守れる力なんだよね? ねえ。僕が、そのフィロスだったら、いつまでこんな思いをしなくちゃいけないのかな?」
カロスがキュッと俺のローブを掴んでくる。
「フィロスってのは、確かにそういうこともできるがそんなにいいもんじゃない。フィロスはフィロソフィアという大きな存在のなりかけだ。簡単に言えばお前はまだ卵ってことだ。フィロスからフィロソフィアになることができれば、自然の恩恵を受けて力が自由に使えるようになる。ほら」
俺は右手を水に変えて見せる。カロスは不思議そうにうねうねと動く水の腕を見つめ、指でそーっと水をつつく。俺はそれに呼応するように水の姿を変えていく。鳥、草木、魚、花。水面には月が反射し、水の造形物たちをきらきらと輝かせた。カロスは興味津々にその光景を眺めている。
「お前もいつか、あんな奴らの力になんて屈しないほど強くなって、みんなを守れるようになるだろう」
「……うん!」
カロスは力強く頷く。先ほどまでとは裏腹に、未来を強く信じているような、そんな顔をしていた。彼は立派なフィロソフィアとなるのだろう。
「フィロソフィアって、どうやってなるの」
触れられたくない部分だったが、やはり聞いてくるか。カロスは真剣な眼差しを向けてくる。どうやってなるか。
フィロソフィアは、犠牲のもとに成り立つ。思い出したくはないことだ。俺のために、彼女は。彼女はいなくなった。もう、戻らない彼女は。
あの日に戻れたら、などと思ってしまう。もしあの老人が孤児院を訪れなかったら。こんなつまらない人間のために彼女が死ぬことはなかったのだ。十年たった今でも、心の中の誰かが、「お前が死ねばよかった」と囁いている。
「どうしたの?」
この少年にはまだ早いだろうか。この力のせいで酷い目にあってきたのに、こんな現実を伝えていいのだろうか。これを教えてしまったら、彼はどんな顔をするのだろうか。
「そうだな、人それぞれだよ」
誤魔化してしまった。でもきっと、これでいいのだろう。カロスは腑に落ちないのか、その顔に困惑の色を浮かべていた。
カロスは正義感の強そうな少年だ。もしかしたら、彼女のように。彼女のように自分を犠牲にしてしまうかもしれない。
花を吐き出す、あの光景。彼女にそんなことを言ったら気持ち悪がられると思って言えなかったけれど、ほんの少しだけ、綺麗だと思ってしまった。
新月の夜、二人でこっそりと寝室を抜け出した。シスターに内緒で夜の孤児院を探検する。しまいには孤児院も抜け出し、夜の花園へ行く。
「星が綺麗ね」
彼女が笑顔で振り向く。星の元咲き誇る花と彼女は本当に綺麗だった。
二人だけの秘密。
そんな日々も、死んでいった。
病院を逃げ出してから約一時間、ようやく草原を抜けた。あの後、カロスは眠ってしまった。疲れていたのであろう。湖と、その向こう側に微かな明かりが見えてくる。久しぶりに見る、ポーチについたランプの光だ。これを見るとやっと家路についたような気になる。どこに任務に行ったって、最後に戻ってくるのはこの場所だ。湖を渡り、だんだん明かりが大きくなっていく。玄関の扉が開き、男が小さく手を振ってくる。リュークだろうか。その姿がはっきり見えてくる。相変わらずだらしのない恰好をしている。
「おかえり」
常ににこにこと笑った顔も、いつもと変わらない。
「ただいま」
カロスを起こさないよう、そっと玄関の横に箒を下ろす。長い飛行の終わりだ。
「クラテス久しぶりだね。この子は?」
リュークはまだ俺の背中にもたれて眠っているカロスを抱いてくれる。
「こいつはフィロスだ。病院で暮らしていたやつだ」
「ああ任務に行ってたんだっけ。思ったより早かったね。何かへまでもしたのかい?」
「まあそんなところだ。ともかく部屋に入れてくれ。そいつのことも頼むぞ」
「はいはい」
リュークはカロスを奥の部屋に連れていく。俺も少し休むとしよう。
月は西の空に傾き始めている。満月にはまだ遠い。
東の星空に、愛しい彼女の笑顔を思い出す。
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