暗がりの宝石
頭の隅の暗がりから、何かが迫ってくる。そんな恐怖を感じた。最悪な目覚めである。何かひどい夢を見ていたのかもしれない。たまに、夢とも思えないほどの切迫感に駆られる時がある。目を開いてもそこに何かあるはずもないが。再び眠ることも叶わず、仕方なくベッドから体を起こす。足の裏にヒヤリと冷たい石の床が吸い付く。同時に、まどろんでいた思考もはっきりとしてくる。窓の外には満月になりかけた月が小さく浮かんでいる。夜はまだ深い。
こんな時はこの病院内を散歩する。ドアを少し開け、周りに人がいないかを確認してから部屋の外に出る。静まり返った廊下には、かすかに花の匂いがある。ペタペタと廊下を歩いていき、隣の棟にある図書室を目指す。一定の間隔で部屋のドアが続き、反対側の窓からは月光が差し込む。最上階の東端に位置する僕の部屋から目的地まではかなりの距離があり、それに加えて迷路のように複雑な病院の廊下は、夜の散歩を飽きさせなかった。これを初めて三か月ほどたつが、未だに通ったことのない道は山ほどある。
長い一本道が途絶え、初めの分岐点だ。このまままっすぐに進むか、右に曲がるか。そのまままっすぐ行けば、部屋からここまでと同じほどの距離を歩き、階段を降りる。この道は窓が無くなるため奥に行くほど暗くなっていく。暗がりと静けさが好きな患者のためだろう。普段はその暗さが不気味で避けてしまい、右へと曲がるのだ。しかし、今日は不思議とその恐怖を感じなかった。闇が手招いているような気がした。僕はまっすぐに暗闇へと歩きだす。背後に感じる月の光はだんだんと薄れていく。少し目を閉じ、暗闇に目を慣れさせる。壁紙やドアの配置などの造りは今来た道とさほど変わらなかった。違う箇所と言えば、柱の隅に置いてあった花瓶が無くなったくらいだ。日の光を浴びなければ、花は育ちはしない。
こんな暗がりの中にいると昔のことを思い出してしまう。思い出したくないことだ。埃の舞う部屋に、薄汚い服。皮と骨だけでできたような細い体。足首には枷が付けられ、鎖でベッドの脚に繋がれていた。毎晩あいつらがやってきては腹のあたりを殴られ、蹴られて、むせび泣いた。そうでなくとも、恐怖に溺れていつも泣いていた。涙は目から離れるとすぐに青い宝石へと変わり、あいつらはそれをにたにたと笑いながら回収していく。気づけば、あいつらに何もされなくたって、簡単に涙が出てくるようになっていった。ただ淡々と、涙を零していく。もう自分が生きる理由がわからなかった。
さっきまで見ていた夢と同じような恐怖を感じる。ダメだ。これは思い出してはいけない過去だ。これ以上思い出してはいけない。強制的に意識を現実に呼び戻す。もう階段の手前まで来ていた。僕は真っ暗な階段を降りていく。
でも僕はもう、そんな恐怖に支配される必要は無いのだ。あの日院長に救われ、やっと得た安住の地だ。此処には僕と同じような病気を持った人たちが何百人もいる。風や流行病などではない、異病を患った者が。
院長は、この病を患ったものにとって神たる存在である。異病を患った者のほとんどは奴隷として高い値段で売買され、一生見世物として生きるか、僕のように金儲けのために使われるのだ。化け物と言われ、石を投げられ、蔑んだ目で睨みつけられる。少し持っているものが違うだけだというのに。人間は自分と異なったものを見つけると群をなしてその対象を何とか排除しようとするのだ。
院長はそんな僕らをこの病院に招き入れてくれた。ここでの生活は前の環境とはまるで逆だった。清潔に保たれた部屋、服はもちろん毎日着替え、お風呂もある。前はあんなに細かった体も今では健康体だ。病院には広い中庭もあり、遊具や木がたくさんある。ここに初めて来た日、生まれて始めて心の底から幸せだと思うことができた。図書室で過ごすのも好きだ。お気に入りの本を見つけた。そこには僕たちの病気は『フィロス』という大きな自然の力だと書かれていた。自分の病気はそのフィロスというものだと思うことで、自然と勇気のようなものがわいてきた。そして何より、僕には生きる希望が生まれた。それは彼女と出会ったおかげだ。
気が付くと、全く見覚えのない扉の前に立っていた。階段を降りすぎてしまったのだろうか。目の前の扉はほんの少し開いている。その隙間から、何かに手招かれているような気がした。分岐点の時と同じように。少しの恐怖を感じながらドアを押し、僕はその扉の奥へと進んでいく。
扉の奥にはまた廊下が続いていた。奥の方から何やら話し声が聞こえる。こんな時間に活動しているということは医師たちだろう。ということは、ここは医師たちの寝室か何かがあるところなのだろうか。何にしろ、医師たちに見つかってしまうと厄介だ。ここはいったん戻ろうか。しかし医師たちがどんなことをやっているのかも気になる。
しばらくその場に立ち止まって考える。
結局、好奇心が勝ってしまった。息を殺して慎重に声のする部屋に歩いていく。床にはじゅうたんが敷いてあるため、足音はしないだろうが、夜はどんな小さな音でも筒抜けになってしまう。細心の注意を払って何とか扉の横までたどり着く。じゅうたんが途切れるぎりぎりの淵に立ち止まる。中からは何人かの医師と、院長の話声がした。耳を澄ませて、会話内容を聞きとる。
「……いきん、四七五号室から五百号室までを担当するヒッペトリスに不審な動向が見られます。ヒッペトリスは三週間前にリオレットの村病院より派遣されてきた者です。まだ確証ではありませんが、あちら側からのスパイである可能性があるため、調査を続行します。さて、次は取引状態と出品物の確認です。」
取引? 出品? 何の取引だろうか。それに、スパイとはいったいどういうことだろうか。
「先日出荷いたしました。0467の羽でしたが、十万ウィリで取引されました」
「なかなか高くついたじゃないか」
「はい。中流階級であるフィグリドレス様がご購入なさりました」
出荷とはどういう意味だろう? 病院が売るものと言えば薬品の材料か何かだろうか。
「ふん、まだ中流か。ここ数年裏の取引に貴族たちが介入してきて市場は常に潤っている。この機会を逃してはいけない。そうだな、一度直接貴族のもとに売りに行くのも悪くないだろう。オークションといった公開の場で売るよりも、個人的な関係を持った確かな客を作り出すのも重要だろう」
「そうしますと、セイラル様などがいいでしょう。あのお方は宝石や光物といった類に目がありません」
「ならば今回売るものは0087、カロスの涙であろう」
唐突に自分の話題になったことに驚く。これまでの会話から何となく彼らが何をしていたか理解する。つまり院長たちは僕や他の患者たちの病気によって精製された物を裏で高値で売りさばいていたということか? あの忌々しい奴らと同じように。
「彼のは、高い値で売れるだろう」
院長はそう言い放つ。高く売れる。今まで散々と言われてきた言葉だ。
何かが崩れていく。
馬鹿みたいだ。どこかで人を信じ始めていた自分が情けない。簡単に心を許して、本当は搾取されているとも知らずに。ああ、もう悔しさを通り越して馬鹿らしい。
やっと普通に生活ができると思っていたのに。
やっと。
やっと、生きる希望を見つけたのに。
手で口元を抑える。感情を抑えようとして行き場をなくした力が、腕を強く握りしめさせる。
ああだめだ。泣いてはいけない。声をあげて泣くことは許されない。じゅうたんは途切れている。このまま涙を落とせば、この廊下に宝石が落ちる音が響き渡るだろう。泣いてしまったら、ここにいることを気づかれてしまう。
だが、思いと裏腹に涙はどんどんと溢れ出てくる。
高い値で売れる。その言葉が頭の中で何度も何度も再生される。心はもうぐちゃぐちゃだ。
何とか留めていた涙が、大粒になって瞳から離れていく。
廊下にカツンという音が響き渡ると同時に、何かが僕の体を包み込んで視界が奪われた。
青い宝石はまた、絶望の暗がりへと落ちていく。
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