生贄姫・ベリーヌ

 さて――。


 ある日、ある晩のこと。

 お城に一人の男が現れ・・ました。

 真っ黒なフードの付いた、真っ黒なマントをを羽織り、真っ黒なシャツを着て、真っ黒なズボンを穿き、真っ黒なブーツをいています。

 ええ、そうです。来た・・、というのではなく、現れた・・・・、のです。


 お城には、警備の兵隊がたくさんいます。

 侍従も侍女も控えています。

 しかし、不思議なことに、誰もこの男がお城に入ったことに気が付きませんでした。

 まるで、窓の隙間から霧が漏れ入るように、忽然こつぜんと王様の寝室に現れた・・のです。


 黒い影のような男を見た新しい王様は、恐ろしくなって、衛兵も呼べず、腰を抜かして、ただ、ガタガタと震えることしかできません。

 男は、水晶玉のように光る二つの目で、へたり込んでいる王様をにらみ付けると、言いました。


「お前の一番大切なモノを、貰いに来た」


 聞き覚えのある声でした。遠い昔、まだ王様が若かった頃に、その耳で聞いた声でした。

 男はもう一度言いました。


「お前があの時言った、お前の一番大切なモノ……お前の娘を貰いに来た」


 頭のよい王様は、すぐにこの不気味な男が誰であるか気付きました。


『この黒ずくめの男は、あの時の龍だ。あの時の龍が、人の形に化けて出たのだ』


「待ってくれ、待ってくれ」


 王様は震えながら言いました。


「なぜ、今になって娘を奪いに来たのだ?」


「愚か者よ。あの頃お前はまだ妻も子も無かったではないか。その上で、生まれてもいない娘が一番大切と言った。

 我には、持たぬ物を奪うことはできぬ。……だから我はお前に娘ができるのを待った。

 お前の娘が大きく育ち、本当に『お前の一番大切なモノ』になるのを、待ったのだ」


 王様は、全身が凍り付くのを感じました。

 しかし、彼は頭のよい男でした。

 王様は顔を上げ、人の形をした黒い龍の顔の辺りを見据えました。体の震えがピタリと止まっています。

 新しい王様は、大きく息を吸って、こう答えたのです。


「今すぐ大切な娘と別れるのは辛すぎる。少しだけ時間をくれ。……1日……いや、半日で良い。別れを惜しむ時をくれ」


 男の水晶のような目が、きらりと光りました。


「明日、正午。……もしたがえたなら、あれからお前が手に入れた物を総て、お前の娘も、妻も、この国も、お前自身も、総て、跡形もなく残さずに滅してくれよう」


 言い終わると、男の姿が、すぅっと消えて無くなりました。


 暗い寝室に、ぽつんと一人きりになった途端、王様の体は大きく震えだしました。


『可愛いベリーヌ姫を、恐ろしい龍の餌食にするなんてできはしない。

 ……何とか龍を欺く手だてはないか?

 私ならできる。あの時も龍を欺いて、己の命を守ったではないか』


 カーテンの隙間から暁光がじんわりにじみ入ってたころ、王様は、ポンと膝を打って立ち上がりました。


 夜は去りました。

 太陽が昇り昇って昇り詰め、南の一番高い空で輝く時間になりました。


 お城の中庭を取り囲むように、王様とおきさき様と、百人の兵隊が、奇麗きれいに列を組んで並んでいました。

 庭の真ん中には、真っ白なベールで頭から顔までを覆い、真っ白な手袋で指の先から肘の上までを覆い、真っ白な上着で首からおなかの下までを覆い、真っ白なスカートで


腰の上からくるぶしまでを覆い、真っ白な靴で足首からつま先までを覆った、真っ白なお姫様が一人、うつむき、ひざまづいていました。


 教会の鐘が虚ろな響きを立てています。

 鐘が十二回鳴り終われば、丁度正午おひるです。


 鐘が十回鳴った時。……青く澄んだ空の彼方に、黒い何かが見えました。

 十一回目が鳴った時。それは広げた翼の影が、お城の中庭全てを闇で覆うほど、巨大な龍であることが、誰の目にも解りました。

 十二回目。

 影は、無くなっていました。

 白いドレスのお姫様の姿も、そこから消えていました。


 しばらくの間、だれも口を開きませんでした。

 呆然と空を見上げ、立ち尽くしていました。

 最初に声をあげたのは、王様でした。

 腹の底から、湧き出るような、大きな大きな……笑い声でした。


嗚呼ああ、なんと愚かな龍だろう。あのでかい頭の中には、きっとサクランボほどの脳味噌のうみそしか入っていないに違いない」


 おきさき様も、大口を開けて笑いました。笑いながら、


「べリーヌ。ああ、私の可愛い姫。もう安心ですよ、出てきなさい」


「はい、お父様、お母様」


 柱の影から、金色の髪を揺らし頬を赤らめて掛け出たのは、確かに新しい王様の娘のベリーヌ姫でした。

 王様はお腹を抱えて笑いながら言いました。


「これ、妻よ。その愛らしき姫はベリーヌではないぞ。

 そして姫よ、こなたはその方の父母ではないぞ。

 この姫の名はペリーヌ・・・・。我が兄の娘、この国の正式な王太子姫クラウンプリンセスであるぞ。

 そして我が娘べリーヌは、この国を守るために命を投げ出して、龍の生贄いけにえになってくれたのだ。

 ……このことは、決して他に洩れてはならない。よいか、決して、誰にも、な」


 王様はまた、ニヤリと笑いました。


 その翌日、百人の兵隊達の家族の元に、それぞれ一通の手紙が届けられました。

 差出人は、王様です。



「あなた方の夫、あるいはご子息は、我が娘ベリーヌを守らんとして、悪辣あくらつな龍と闘って殉職しました。

 あなた方の夫、あるいはご子息の健闘はむなしく、我が娘は攫われてしまいましたが、我々の悲しみはそこにはありません。

 このとき龍が、触れた物をただれ溶けさせる毒を吐いたため、あなた方の夫、あるいはご子息の亡骸なきがらの、鎖骨さこつ一つさえ残らなかったことこそが、我々の損失であり、悲しみであり、同時に褒め称えるべき勇敢さでありました。

 どうかあなたの夫やご子息たちを誇りに思って下さい」



 王様が手紙をしたためている間、お城の中庭では、大規模な「模様替え」が行われていました。

 深い穴が掘られ、それがすぐに埋められた様子でした。


 お城の中庭は、誰も近付かない菜園ポタジェになりました。

 庭であるのに庭師が木々の枝打ちをすることが許されず、畑であるのに料理人が香草を摘むことは禁じられました。

 だれも手入れをしない庭では、強く良い香りのする木々が育ち、草花が美しく咲き乱れているのです。

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